西山要一・奈良大学教授の講演
『中東レバノンの遺跡を修復する ─協働を通して相互理解を深める─』 遺跡修復でつながったレバノンの人たち 別掲のように、8月12日、奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(ナラーラ)は、奈良市のおかたに病院多目的室で「講演とアラビア音楽ライブ」の集会を開催しました。 この集会で、人文科学・自然科学などの研究分野を多面的に駆使して文化財を研究する「保存科学・修復学」を担当してこられた西山要一・奈良大学文学部教授が、「中東レバノンの遺跡を修復する──協働を通して相互理解を深める──」という演題で、スライドも使って、約1時間20分にわたって講演されました。その講演の要旨を紹介します。 (1)レバノンという国について 5000年前に、すでに優れた文明が 日本では、レバノンといってもあまり知られていませんが、地中海の東の端に位置しており、5000年前には、すでに優れた古代文明があったといわれるところで、東西南北の文明の十字路として栄えたところです。首都ベイルートの南約80キロにあるティールはフェニキアの中心都市として栄えた港町で、ここを拠点に航海上手のフェニキア人は、地中海を縦横に往来し、各地に植民地をつくっていったといわれています。 多民族国家で、政治状況は日本とはかなり違いますが、私が接したレバノンの人々は、家族愛、豊さ、平和を求めており、その点では日本の庶民と変わりはありません。人口は400万人、同じほどの国民が海外で活躍しています。面積は1000平方キロ。 国の南北を高度3000メートルの級の山もあるレバノン山脈が貫いており、その西側は、地中海からの湿った空気がその山脈に当たって降雨量の多い地域で、有名なレバノン杉が育ち、それがガレー船など船舶をつくる木材となりました。現在でもレバノン山脈のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観とも言われています。カディーシャ渓谷は、レバノン杉が現在も自生している地でもあります。山脈の東側のベカー谷はリーブ、ブドウなどがとれ、さらに東のアンチレバノン山脈をこえるとシリアとなります。 航海術にたけたフェニキア人 海岸に沿って、北からトリポリ、ジュベイル(ビブロス)、ベイルート、サイダ ティールと、船で1日行程海の間隔で港湾都市が連なっています。南のエジプト文明、北西のギリシャ文明、東に行けばチグリス・ユーフラテスのアッシリア、古代ペルシャ文明などが行き交う、まさにその十字路にレバノンは位置しているわけです。 その一つの証が「レバノンの入口」にたとえられるナハル・エル・カルブ(ドッグリバー)の岸壁に、古代から近代までの征服者が刻した碑文が残っていることです。古代エジプト第19王朝のラメセス2世(位前1304頃~前1237頃)からナポレオン3世(位1852~70)まで、ここに名を刻んだ歴史上の人物は枚挙に暇がありません。 レバノン周辺は、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にかけて、都市国家を形成し、地中海を舞台に活躍したフェニキア人の地でした。紀元前9世紀~紀元前8世紀にかけて、内陸の国である、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア地方の諸都市は、政治的な独立を失っていきました。その後は、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、アラブ、十字軍、オスマン・トルコの支配下に、そして第一次世界大戦後はフランスの統治下におかれるなどの変遷をたどっています。第二次大戦後に独立をかちとりますが、イスラエルの建国にともない、イスラエルとアラブ諸国との間で起こった、第1次中東戦争により、イスラエル軍に追われ、難民となったパレスチナ人が、レバノン、ヨルダン、シリアへ避難しました。レバノンに避難した PLOやパレスチナ難民とイスラエルとの紛争などを通じて、たびたびレバノンはイスラエルの攻撃を受けることになります。この緊張状態は現在も続いています。 ヨーロッパの人たちから見て、文化発祥の地 ヨーロッパの人たちは、レバノンを「文化発祥の地」「日の昇る地」と呼んでいます。というのは、ビブロスに残る王の墓から発見された石棺に22の子音による最古のフェニキア文字が刻まれているからです。BC13~12C、東地中海一帯を政治的混乱に陥れた「海の民」の攻撃を受けてエジプトの勢力が弱体化すると、フェニキアの諸都市は独立的な都市国家となり、その黄金時代を迎えました。 フェニキア人は1つの文字が1つの音を表す表音文字を使うようになりました。そして地中海全域を行き来していたそのフェニキア人によって、各地に伝えられ、ギリシャ文字、ラテン文字など、改良されて現在のアルファベットの形になったのです、そこから「文化発祥の地」といわれているのです。 ビブロスの名は、パピルスを意味するギリシャ語です。また、聖書(バイブル)の語源でもあります。 レバノンの5つの世界文化遺産 レバノンで世界遺産に登録されているのは、いま述べたビブロス遺蹟を含めて、バールベック、アンジャル、ティールの4ヵ所。そして自然遺産のカディーシャ渓谷(聖なる谷)と神の杉の森(ホルシュ・アルゼ・ラップ)の5つがあります。 ビブロスは海洋交易民族のフェニキア人が築いた7000年の歴史を持つ古代都市遺跡が残っています。ビブロスは、泉を中心にした町で、紀元前2世紀頃のビブロス王の墓、紀元前2800~2600年頃のオベリスク神殿、ローマ時代の円形劇場や列柱発掘されました。 バールベック遺蹟には、ローマ帝国が造ったジュピター神殿や、バッカス神殿、ヴィーナス神殿があります。 アンジャル遺蹟には、広大な地域を支配していたウマイヤ朝(661~750年)の第6代カリフ(後継者の意)であったアル・ワリード一世が7世紀後半に建設したレバノンに唯一残るウマイヤ朝の都市遺跡があります。 ティール遺蹟には、神殿や列柱、凱旋門、水道橋、大浴場、劇場、墓地、戦車競技場などが残っています。 レバノン山脈最高峰のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観ともいわれています。「カディーシャ渓谷と神の杉の森」は世界文化遺産登録名で、レバノン杉が現在も自生している地です。カディーシャとは「聖なる」という意味です。写真はそのレバノン杉です。 (2)レバノンでの遺跡修復活動 ティールの世界遺産地区の東、約2キロメートルのラマリ地区で、奈良大学の考古学調査隊は、2002年度から現地の協力も得て、ローマ時代の地下墓、堀込墓の発掘にとりくみ、テラコッタの神像などを発見しました。 2004年度から、同地区で、西山要一を代表者とする奈良大学保存修復隊が、壁画地下墓TJ04の保存修復研究をおこない、2007年度に修復を完了しました。 壁画地下墓T.01の発掘、調査、修復 そして、2009年度から新たに同じティール市郊外のブルジェ・アル・シャマリ地区にある壁画地下墓T.01の発掘、調査、修復に、奈良大学とレバノン考古総局との共同研究としてとりくみました。今日はT.01遺蹟の発掘と修復、調査などについて報告します。 壁画地下墓T.01は、ラマリ地区の壁画地下墓TJ04の南、約1キロの丘陵の斜面にあり、その北には民家が隣接していました。地上表面と地下墓室へ下りる階段には草が生い茂り、瓦礫の捨て場になっていました。墓室入口の保護鉄扉は腐食して著しく損傷していました。墓室に入ると、床には岩盤掘込石棺の蓋石や破壊された土器が散乱しており、天井は崩落していました。4つの壁にある壁画も2割ほどが剥落していました。 それでも残っている壁画には、鮮やかに彩色された孔雀・鳥・魚・パン・壺・花などとともに、ギリシャ語で書かれた碑文がありました。これら残されていたものは、この地下墓の価値と保存することの重要性をはっきりと示していました。 2009年度は、壁画地下墓T.01の記録作成に重点を置いて調査をおこないました。横長の平面プランの墓室には岩盤掘込石棺6基と甕を据える坑があり、床はモザイクで飾られていました。またモザイク床にはこの地下墓の築造年が描かれていました。それによると紀元196~7年であることがわかりました。 2010~1年度は、遺構の記録や出土遺物の整理、保存環境調査など、基礎データーの収集整理にとりくむとともに、壁画のクリーニング、出土人骨の鑑定、地下墓室内の微生物の調査などをおこないました。また、地表にあった石切り遺構、岩盤掘込石棺の調査もおこないました。この時、地下墓および地表遺構の三次元測量もおこない、実測図を作成しました。 壁画地下墓T.01の調査内容 壁画地下墓T.01の調査で採集された遺物は、壺、ワイン壺、ランプ、ガラス瓶、壁画、モザイクなどの断片など600余りに上ります。それぞれ写真撮影や実測図作成をおこない、機種や時代を検討しました。 ガラスや顔料などの組成元素分析をおこないました。最初の調査で出土したガラスなど7件・12点を、レバノン考古総局の許可を得て、奈良大学に持ち帰り、蛍光X線分析装置を使って分析をおこないました。アラスはアルカリ石灰ガラスでローマ時代の特徴を示し、顔料の赤はベンガラ、緑は緑土とわかりました。 墓室内の床と、岩盤掘込石棺より発見した人骨を鑑定しました。鑑定の結果、棺に納められていたのはいずれも成人の人骨であることがあきらかになりました。放射性炭素年代測定法による測定もおこない2世紀頃のもとと推定されました。 カビ・バクテリアは、文化財を損傷する要因の一です。特に壁画にカビが生じると、彩色が変色・褪色して風合いを失うばかりでなく、壁画そのものが消滅することになりかねないので、修復完了後の保存計画に組み込むために、その調査を念入りにおこないました。その結果、数十種のカビを検出しました。 墓室内の温度・湿度の連続測定をおこなうなど、保存環境の観測をつづけました。発掘・調査にともない、温度・湿度の変化は、やはり増えていました。扉を閉じて人が出入りしなければ変化は緩やかなものと予測されました。墓室内の安定した湿度と温度と日光が射しこまないことが壁画の鮮やかさを保ってきたことがわかりました。 壁画の赤外線写真撮影 1800年の歳月を経た地下墓の壁画は、発掘調査をした時点でも、色彩が鮮やかに残り、作られた当時の華やいだ墓室を髣髴とさせるものがありました。しかし仔細に観察すると壁面は、表面を白い石灰質の膜が覆っており、茶色の土汚れが付着し、鮮明さを失っているところも少なくありませんでした。 そこで、オリジナルの壁画を画像で再現するために、軽便なデジタルカメラによる赤外線写真撮影を試みました。 その結果、西壁の孔雀の体の描線、足で踏みつける草花の茎、口に片方を咥える花綱が鮮明に映りました。また東壁の壺のスタンドや全体の描線、筆から垂れ落ちたような黒いシミなどが鮮やかに映し出されていました。北壁の逆さ吊りの鳥の翼や体の描線、口から筋となって滴り落ちる血の描写も判明しました。 壁画とその修復 壁画のクリーニングすすめたところ、南壁東側に「さらばリューシス、誰だって死ぬのだから」(左の写真)という碑文が鮮明になるとともに、その下にリューシスの肖像が描かれていることが分かりました。 また墓室のモザイク床には「元気だせよ、誰だって死ぬのだから 322年」という碑文(右の写真)がみつかりました。ティール暦322年は西暦では196/197年にあたります。このほか、漆喰壁の強化、壁面の浮き上がりや亀裂の修復に、日本の文化財修復士とイタリアの文化財修復家がとりくみました。 地表部掘込石棺墓の調査 地表部掘込石棺墓は、岩盤をくりぬき、その上に蓋石を乗せた構造になっていました。多くが盗掘にあっていましたが、一つだけ奇跡的に盗掘を免れていました。その墓の蓋をとりはずし、流れ込んだ細かい土を慎重に取り除いていったところ、石棺の半分が石で覆われており、それをさらに取り除いたところ被葬者の膝付近の側石に寄りかかるように裏返しの陶製のマスクがみつかりました。 マスクは、縦の長さが23センチ、横幅17センチで、顎にはひげをはやし、頭に二本の角をもち、耳の上部がとがり、こわもての様相です。その特徴から、牧羊神パンだと推定しています。 マスク以外に、ティールの紋章のあるコイン、貝殻、ガラス玉260個などが発見されました。 国際的・学際的な協力による調査活動 今回の調査は、日本側からは奈良大学の保存科学に携わる者に加えて、他の大学などの考古学者、人類学者、微生物学者、三次元測量学者、それに文化財修復しなどが参加しました。レバノン側からもレバノン文化省考古総局の担当官、レバノン大学などの考古学・遺跡修復の教授、美術史・絵画修復の教授、イタリアの文化財修復家、韓国の保存科学者など、国際的・学際的協力でおこないました。 現地での修復作業は、ワーカーや商店やレストランの人々、軍や警官との出あい、そして彼らの家族との親密なつきあいに導いてくれます。これこそが、他民族・他文化とのほんとうの交流ではないでしょうか。 国際色豊かな壁画調査・修復チーム
by naraala
| 2012-10-14 20:02
| 講演会
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