「アフリカのこと
丸ごと知りたい」 AALA常任理事の高林敏之さんを講師に 連続講座 ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)は3月25日、奈良市内で、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会常任理事・西サハラ問題研究室主宰・早稲田大学非常勤講師の高林敏之さんによる「アフリカのこと丸ごとを知りたい」と題する集中講座を開き、会場いっぱいの50人が参加しました。 集中講座は、①アフリカ近現代の歩みを知るために、②アフリカ民主化の波と「北アフリカ革命」、③アフリカは日本とどう関わってきたか──の三つの柱で、4時間余りにわたっておこなわれました。わかりやすく、しかも丁寧ない説明に、参加者は耳を傾け、熱心にメモを取る姿も多く見られました。 以下、高林さんの講義の要点を紹介します。 第一講義──アフリカの近現代の歩みの特徴 アフリカの多様性を理解することの重要性 「アフリカ」というと、ひとくくりにして語られたりすることが多いが、面積でいえばアジア全体に匹敵し、総人口は約10億人、人種も多種多様で、言語集団も800から3000ともいわれる多数の民族が住んでいる大陸である。現在、「サハラアラブ民主共和国=西サハラ」を含めると55の国からなっている多様な地域である。このことをまず認識してほしい。 アフリカに引かれた人為的な国境線 アフリカの政治地図についていえば、19世紀にヨーロッパの列強によって、アフリカを植民地として分割する支配が始まり、民族や歴史的背景とほとんど合致しない人為的な国境線が引かれ、それが今日にいたるいろいろな矛盾の要因となっている。 そのアフリカの植民地化も、時代的にはアジアや中南米の植民地化に比べて比較的新しく、ヨーロッパやアメリカでの産業革命による機械制大工業の発展にともない、16世紀から続いていた奴隷貿易が終息するなかで、19世紀末から20世紀の初めにかけて、ヨーロッパ列強によってあらたな植民地化として進められた。探検→宣教→軍事侵略という形で進められ、その仕上げが1984年から1985年にかけて開かれたベルリン会議で、分割境界線が確定された。 そのなかでも、ベルギーのレオポルドⅡ世が、コンゴをみずからの私有地植民地としてゴム生産を独占した。そして、ベルリン会議がレオポルドⅡ世の支配を容認した。その結果、ゴム生産における強制労働や虐殺がおこなわれたのは特徴的である。 抵抗の歴史と独立の経緯──その裏面も そのように植民地として分割支配されるなかでも、アフリカはたんに「奴隷化され植民地化された」地域として存在しただけでなく、そこにはさまざまな抵抗の歴史があった。そして、第二次世界大戦が終結した後、つぎつぎに独立を獲得していったのである。その抵抗の多くが、ナショナリズム政党による不服従運動や労働運動などを通じての非暴力的闘争で独立をかちとっていったのである。それに比べて、ヨーロッパ系入植者の多い国では激しい武力闘争もおこなわれた。 1960年は「アフリカの年」といわれるように、一気に17カ国が独立をかちとった。それは、アフリカの栄光の姿といえるが、その裏面もよく見ておかねばならない。とくにフランスがその植民地だった国々に、「独立」や「自治」を付与するのと引きかえに、それらの国々をフランスの経済的支配下に置く「フランコフォ二―」(フラン圏)を作ったことを見ておかなければならない。それは、それらの国々にあった「アフリカ・ナショナリズム」の動きがドゴールに屈して敗北したことのシンボルでもあった。 現代アフリカに関する「誤解」 現代アフリカに関してはいくつかの「誤解」がるので、解明しておきたい。 白人の入植はごく一部 その一つは、「アフリカはプランテーション(入植地)制のモノカルチャー経済」だという「誤解」についてだ。 一部地域を除いてアフリカは、ヨーロッパ人にとっては居住に適さず、それらの地域への本格的な白人の入植はおこなわれなかった。それらの植民地では、課税と間接統治を通じて、現地農民に商品作物の生産や、アフリカ台地に眠る鉱物を掘り出すための鉱山労働に従事させるという支配の形態をとったのが実態だ。 プランテーションが存続したのは、南アフリカ、ジンバブエ、ケニア高原などである。これらの国々では、現地住民の土地収奪がおこなわれ、それにたいして現地住民による白人入植者に対する激しい抵抗がさまざまな形で長年にわたって続いた。それを白人たちが暴力で抑えつけたのである。 民族紛争という表現 もう一つの「誤解」は、「アフリカの紛争は民族(部族)紛争だ」という表現がなんの躊躇もなく使われていることだ。 ヨーロッパ列強が確定した国境線を「ネエイション(国民)」形成の枠組みとしていることからアフリカ人を「ネイション段階に達していない」と一方的に規定した概念として「部族」という言葉が使われている。これは大きな間違いだ。 同時に、植民地単位で独立したアフリカ諸国の指導者やエリートのなかにも、「部族」概念の呪縛を抜けられず、「部族主義の根絶」と「国民統一」の名目で、一部指導者による独裁体制を正当化する動きがあったことも見ておかなければならない。 第二講義──アフリカ民主化の波と「北アフリカ革命」 北アフリカで2011年に、チュニジアを皮切りにエジプト、リビアと続いた革命の波が、もっぱら「アラブの春」の一環として語られている。それらの諸国がアラブ世界の一部をなしていることは事実だが、同時にアフリカ大陸に位置するという事実を軽視すべきではない。 なかには「(アラブの春)が独裁体制の多いアフリカに波及する」という言説さえ見られるが、そういう認識は、1990年代以来アフリカにおいて着実に前進を遂げてきた民主化の事実を無視するもので、「アフリカの後進性」という誤った固定観念の産物だ。 アフリカを覆いつくした独裁体制 独立後のアフリカ諸国を、1980年代までは、一党独裁体制が覆いつくしていた。その体制を正当化する論理は次のようなものであった。 その論理の第一は、「国民(ネエイション)の統一」というものだ。アフリカ諸国のほとんどが、ヨーロッパ列強による植民地分割によって国境線が画定され、それが独立した国のスタートとなっているために、国内には多様な民族・言語・文化をかかえていた。ナイジェリアやスーダンのように数百の民族を擁する国もあるぐらいだ。逆に一つの民族が複数の国に分断されている例も珍しくない。ソマリア民族は4つの国に分断されている。 こういう状況の中で、国境を再画定することは不可能である。そこから「分けられた地域単位でネエイションをつくるべきだ」と、多民族国家を一つに「統一する」、「団結する」というところから、多党制を否定する論理となっていった経緯もある。 いま一つは「アフリカ社会の共同性」という論理である。階級闘争に否定的な「アフリカ社会主義」の基盤となるものだった。 また、1960年に勃発したコンゴ動乱で、南部の鉱山地帯のウガンダ州が、欧米資本や傭兵の支援もとで分離独立を宣言したことから、「植民地主義者の分裂策動をふせぐため」という名目で「部族主義」「分裂主義」への対抗として独裁体制がつくられるという事態もあった。 一党独裁の実態は、國民の富の横領・独占 そうしてできた体制が、国民の利益を擁護するものだったのかといえば、まったく逆だったことが明らかになった。 一党独裁体制は、大統領など最高権力者・統治者の親族・取り巻きや出身民族などを、国家の限られた権益に優先的にアクセスさせる装置となり、「パイの平等な分配」ではなく、富の独占・横領が常態化し、政治腐敗と人権抑圧を蔓延させるにいたった。そして、この権益から疎外された民族や国民の異議の申し立てに対しては、「部族主義」のレッテルを貼って弾圧するにいたったのである。 こういう体制のもとでは、国民の信頼を失った政権を、選挙を通じて交代させることは不可能で、暴力的手段や民衆蜂起によるしか政権交代の道がなく、いわゆる「世直し」の期待を背負った軍事クーデターの続発と軍事独裁政権の続出となった。しかし、当初は革新の期待を背負った軍人の指導者たちも、多くは倒した政権と同じ道をたどり、新たな独裁体制を敷いて大統領に居座り続ける事態となったことが長期にわたる暗黒の時代をつくりだした。 1990年代には政治的地殻変動が 1963年には、「アフリカの共同」を追求する組織として、「アフリカ統一機構(OAU)」が創立されたが、その機構の「原則」とされたもののなかに「内政不干渉」があった。大国の干渉を排除するという積極面もあったのだが、もう一面で、アフリカにおいてそれぞれの国でおこなわれた人権侵害や反民主主義体制、クーデターをこの原則で容認するという弱点も生み出した。その「内政不干渉」の原則の限界が明らかになるなかで、2002年にOAUを改組して「アフリカ連合(AU)」が誕生し、クーデター政権の資格停止を「憲章」に明記、早期に民政への復帰を促すなどの措置が取られるようになった。これは大きな前進だった。 そのきっかけとなったのは1990年代で、ナミビアの独立、エリトリアの独立、南米のアパルトヘイト終焉など、アフリカには地殻変動といっていい政治的変化がおきたことである。そこから一気に多党制が実現し、十数カ国で与野党の政権交代がおこなわれ、過半数の国で、国際的にも「民主的」と認められる定期的な選挙が実施されるまでになった。 そして「アフリカの結束によってこそ、アフリカの国としての力を示せる」ことに確信を持つようになり、アフリカの協働への前向きの変化が起きている。クーデターの起こるケースも2000年には激減した。 AUの諮問議会として「パン・アフリカン議会」が設置されたが、これは民主化が定着した国々の声をAUに反映していく機関となった。また、AUの下位地域共同体として「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)」や「南部アフリカ開発共同体(SADC)」が形成され、それらの地域では民主化が大きく進展した。それに比べて、北部、中部、東部での立ち遅れが目立つ。 民主化の立ち遅れた北部で「北アフリカ革命」が 2011年の「北アフリカ革命」は、1990年からの20年間に進展したアフリカ民主化の波が、北アフリカに達して起こったものだということを認識しておく必要がある。非民主的な政権獲得や居座りを否定し、選挙民主主義を支持する政治文化が、アフリカに着実に広がりつつあるからこそ、北アフリカ諸国における暴力による政権維持を許さないという圧力は、西アジアのアラブ諸国とは比較にならないほど強力なものとなり、それが政変を引き起こした。 さらに、サハラ以南のアフリカの民主化の状況は、アラビア半島に位置するアラブ諸国の権威主義体制とくらべ、特筆すべきものである。とくにバーレンでの民主化運動を粉砕するために「湾岸協力評議会(GCC)」が軍事介入をしたことや、モロッコの西サハラ軍事占領の事実がそれを示している。 そして、北アフリカの民主革命は、将来、アラブ全体に波及するとともに、アフリカに残っている独裁体制にも圧力として還流する歴史的可能性を含んでいる。 アフリカおよびアラブ諸国の民主化状況 国際NGO「フリーダム・ハウス」のFreedom in the World2011年度版による「政治的権利・市民的自由」の7段階評価の数値を使い、北アフリカ、西アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アジアに分けて、各国の民主化度を示す表を提供したが、それによるとアフリカに比べて西アジアの民主化が大きく遅れていることが一目瞭然である。 第三講義──アフリカは日本にどう関わってきたか 「手が汚れていない日本」は本当か ポスト冷戦時が明確になった1993年以来、日本は「アフリカ開発会議(TIDAC)」を5年に一回開いてきている。日本政府、なかでも外務省は、日本のイニシアチブで開かれているこの会議を、「より大きく長期的な日本の国益を実現させる為の一つの手段」と位置付けてきた。そして、日本が行うアフリカ外交は、「利他主義」に基づく援助外交に他ならないというイメージづくりに力を入れ、そのイメージがあたかも実体であるかのように一人歩きし始めるにいたったのである。しかし、はたして「手が汚れていない日本」は本当か。 植民地主義の立場に立った戦前の日本 遡れば日本は、少数の白人が支配する南アフリカ政権と密接な関係を持ち、1910年にはケープタウンに「名誉領事館」を開設した。アパルトヘイト体制の南アとの主要な貿易相手となったのである。1935年ごろには、他の黄色人種とはちがって、「名誉白人」とよばれ、白人しか出入りできないところへも「ジャパニーズ」を振りかざして、出入りしたのである。まさに植民地主義者の立場に立っていたといえる。 さらに、第一次世界大戦でドイツが敗れ、ベルサイユ講和条約が締結される際には、旧ドイツ植民地分割で、主導的な役割を果たしたことも見ておかねばならない。ナミビアの併合を強く要請する南ア政府と協働し、太平洋の赤道以北の南洋諸島を、日本の信託統治下に置くことを要求、日本帝国の法規がこの地域では適用されるという「C級委任統治」という形で「併合」を実現したのである。これは戦後のことになるが、南アによるナミビア占領支配は1990年まで続いた。その間、国連ナミビア理事会のもとにナミビアはおかれる建前になったのだが、南アの不法占領は続き、そこで産出されたウランを日本の原子力公社は南アから買い付け、それが日本国内の原発に使われている。 欧米列強による植民地の国境線を確定させたベルリン会議の際には、日本は列強の一つとして、アフリカにおける他の植民地保有国とともに、アフリカ植民地での経済的権益獲得に参画して「コンゴ盆地条約」を締結させた。 戦後のアフリカ外交は「西側陣営の一員」として 戦後の日本のアフリカ外交の特徴は、「資源重視、人権・自決権軽視」にある。 アパルトヘイトを取り続ける南アの白人政権と密接な関係を持ち、南アの世界最大の貿易相手国が日本だったのである。戦前から続いて「名誉白人」という扱いを受け続け、非同盟諸国会議などで日本は名指しの批判をうけた。 南ア、旧ポルトガル植民地、西サハラなどでの民族解放運動を、国際的には「準国家」として扱っているのに背を向けて、それに対し「反乱国民」と否定的な姿勢を取り続けている。 さらにザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ政権、ニジェールのクンチェ軍事政権、マラウイのバンダ政権、ケニアのモイ政権や、モロッコ王国、エチオピア帝国など、親西的な独裁体制との友好関係を日本は取ってきた。 これらの事実の根底にあるのは、植民地支配者の目線でアフリカを見ている「ユーロアフリカ的外交政策」にある。 今も変わらぬアフリカ外交 講義の冒頭に述べた「アフリカ開発会議((TIDAC)」も、援助提供者主導が露骨なプロセスであり、「アフリカ連合(AU)」を2011年まで共催者に加えず、「アフリカのオーナーシップ」と「パートナーシップ」の尊重という建前に背反する姿勢を日本政府は取り続けてきた。 「開発の権利に関する決議」「グローバリゼーションと全ての人権の完全な享受に対するその影響に関する決議」「民主的で平等な国際秩序の促進に関する決議」など、非同盟諸国が主導する国連総会の関連決議に、他の欧米諸国とともに一貫して反対してきている。 また、債務減免や途上国産品への市場開放に対する消極姿勢も顕著だ。中国がアフリカの農産物について95%を無税にしていることとくらべると、日本の姿勢はほんとうにアフリカの利害を考慮に入れているのか疑わしい。 さらに、アフリカが求めている「普遍的人権」も背を向けていることについても、「人種主義的実行の不認容に関する決議」への反対、「人権を侵害した人民の自決権行使を妨げる手段として傭兵の利用に関する決議」への一貫した反対、「人権と一方的な強圧的措置に関する決議」への一貫した反対などなど、アフリカなど第三世界側が提起する国連総会への人権関係決議に、日本は否定的投票行動をしめしてきた。 ソマリアの「海賊問題」での日本の行動の危険 ソマリアでは、いま無政府状態が続いているが、それを利用して、諸外國の船舶が、ソマリアの海域に放射性廃棄物、カドミウム、水銀など有害廃棄物を投棄したり、水産資源の乱獲をおこなったりしている。これは国連事務総長ソマリア特別代表や国連環境計画、国連食糧農業機構などの報告でも明らかにされていることで、まさに「海賊」はこうした諸外国の船舶の違法活動にこそある。 「無辜の民」はソマリア人たちであって、ソマリア人の資源を奪い、生活を脅かし、災厄をもたらした船を守るために、ソマリア人たちを排除し、処罰しようとする諸外国海軍による「海賊対処」行動は、ソマリア人にとっては、不当な抑圧であり、本末転倒である。 しかも日本の自衛隊がソマリアに出動する根拠とされている「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」では、「海賊」を日本の法により拘束し処罰できることを定めており、ソマリアに限定されない恒久法となっていることもみておかねばならない。まさに、世界的な治安出動と、現地人処罰を可能にした法律であることから、日本国憲法の9条を真っ向から否定するものだ。 また、自衛隊はジブチにその基地を置いているが、ジブチ政府との間では「交換公文」によって日本人要員が起こした事件に関する司法権は全面的に日本が握るという在日米軍の日本での特権を上回るような治外法権を押し付けたのである。 ソマリアの「海賊問題」を利用しての抑圧的な軍事行動と、植民地主義的な地位協定による自衛隊の世界展開をはかるという事態は、「憲法九条は死んだ」という状態をつくりだしている。「憲法九条を復活させる戦いが必要な段階にいまは来ている」。 (報告 西浦 宏親)
by naraala
| 2012-06-22 15:25
| 講演会
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