3月20日、ナラーラ総会で中塚明奈良女子大名誉教授の講演を聞いた。講演は、「韓国併合」についての話であったが、そのなかで、時の政府や支配者が歴史的事実を偽ったりウソをついたりして、国民に間違った歴史認識を植え付けてきた例(歴史の偽造といってもよい)をいくつか紹介された。 ウォーナー伝説とは 私はいま、法隆寺でボランティアガイドをしているが、法隆寺や奈良と関係の深い話として、「さきの太平洋戦争中、アメリカ政府や軍はウォーナー博士の進言に基づいて、京都、奈良、鎌倉などを空襲せず、日本の貴重な文化財を守った」というものがある。これがウォーナー伝説といわれるものである。 この話は、敗戦(1945年)直後から1990年代まで日本全体に広く流布され、いまも信じている人は少なくない。法隆寺をはじめ全国6か所にウォーナー感謝記念碑が建てられている(法隆寺では境内西の端に「ウォーナー塔」という石塔がある。写真参照)。 私は2年ほど前、鎌倉の友人を訪ねた際、鎌倉駅西口にあるウォーナー記念碑の前で、現地の観光ガイドが「ここに『文化は戦争に優先する』と刻まれています。このウォーナー博士の努力で、アメリカは鎌倉に爆弾を投下せず、古都が戦禍からまぬがれたのです。鎌倉市民と文化財の恩人です」と案内しているのを聞いて驚いたことがある。 歴史の真実はどうだったか まず結論からいうと、この話は、アメリカ占領軍(GHQ)の対日政策のために作られたウソであり、当時の朝日新聞(1945年11月11日)などによって広められた「つくられた美談」であった。 1994年になって、アメリカは戦争中の機密文書を公開したが(この点ではさすがアメリカだと思う)、その資料を吉田守男大阪樟蔭女子大教授が分析・研究した結果を論文にまとめて発表した。それによると、ウォーナー氏の功績とされてきたことは、事実でなかったことがはっきりした。 論文によると、古都が空襲に遭わなかったのは、京都は原爆投下目標都市であったから通常の空襲は禁止されており、奈良・鎌倉は小都市であり軍事施設が少ないため爆撃の順番が遅いほうにリストアップされ、実行前に日本が降伏したからである、と述べられている。この吉田氏の研究に対する有力な反論がないので、近年は、この説のほうが正しいとされている。 吉田教授は研究の内容を「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」という文庫本(朝日文庫)に出している。このほか神奈川歴教協が編集した「神奈川の戦争遺跡」、鈴木良氏編の「奈良県の百年」という書物にもウォーナー関連の記述がある。 以下は、これらの書物を読んでの私の概括的なまとめである。 (1)ウォーナー博士(ランドン・ウォーナー1881~1955)は、戦前、岡倉天心のもと 日本美術を、奈良では仏教彫刻を学び、ハーバード大学付属美術館の東洋部長になった人。太平洋戦争中に日本の文化財の一覧表(ウォーナーリスト)を作成したのは事実であるが、それは文化財保護の目的ではなく、戦争が終わったあと、日本が諸外国から略奪した文化財の返還が必要になった時、その損害に見合う等価値の文化財の基礎資料として、リストアップしたといわれている。 (2)米軍が京都を爆撃しなかったのは原爆の投下を予定していたからであるが、アメリカは原爆投下候補地として、広島、京都、横浜、小倉、長崎を指定していた(このうち広島と京都がAA級)。これらの都市には一般爆撃が禁止されていた。指定されるまでは京都でも空襲があったし、奈良でも1945年5月、2回の空襲があった(だから文化財を守るため空襲をさけたというのは事実でない)。横浜は、あとで候補地をはずされたので空襲が行われた。 (3)原爆投下の実行段階になって、2番目の京都があとに回され、まず広島、ついで長崎に投下された。これは、当時のスチムソン陸軍長官が京都には日本人のふるさと意識がり、原爆投下すれば戦後日本がソ連側につくことを懸念して、延期させたからである。いわば政治的理由であって、決して文化財保護ではなかった。もし戦争が長引いておれば、京都にも原爆が落とされていたと推測されている。 なぜこんな「美談」が広められたのか (1)第2次世界大戦直後の最大の国際問題は東西対立・米ソ冷戦であり、日本を米ソどちらの側にひきつけるかが大きな問題であった。日本を占領したアメリカは、軍国主義を否定するとともに、親米的な感情をつくり出すために意図的に作り出されたのが「ウォーナー伝説」であったと考えられる。 (2)1955年にウォーナーが死去すると、政府は勲二等瑞宝章(外国人への最高の栄誉)を授与。地方では奈良県議会がいち早く弔問決議(55年)。鎌倉では吉田茂元首相らが発起人となって追悼法要。その他各地で追悼行事が行われた。その結果、ウォーナー伝説は瞬く間に全国に広がっていった。ウォーナー顕彰碑も各地で作られた。製作順にあげると、法隆寺境内(1958)、安倍文殊院(59)、茨城大学五浦美術研究所敷地内(70)、京都霊山歴史館(70)、福島県湯川村(81)、鎌倉駅西口広場(1987)など。 (3)最後に、ウォーナー博士自身どういう態度をとっていたか。博士は最初から「自分が政府に、古都を爆撃しないよう働きかけたことは一度もない」といい続けてきた。すると、逆に謙遜していると思われ、ますますウォーナー恩人説が広がった。法隆寺のウォーナー塔の碑文にも「極めて謙虚な性格のため」とか「本人の否定にもかかわらず」とか書かれている。1974年に博士の孫娘が来日して、鎌倉の「博士の遺徳をしのぶ会」で挨拶したときも、祖父はずーと否定しつづけ、何の力にもなっていないと話していた、とのべている。 ちょっと長くなったが、ウォーナー伝説は歴史の偽造の身近な例である。情報公開が国民に正しい歴史認識を持ってもらう上で非常に重要であることを示している。
by naraala
| 2010-04-03 19:54
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