西山要一さんの講演

西山要一・奈良大学教授の講演

『中東レバノンの遺跡を修復する
─協働を通して相互理解を深める─』


遺跡修復でつながったレバノンの人たち

d0117895_1917434.jpg 別掲のように、8月12日、奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(ナラーラ)は、奈良市のおかたに病院多目的室で「講演とアラビア音楽ライブ」の集会を開催しました。
この集会で、人文科学・自然科学などの研究分野を多面的に駆使して文化財を研究する「保存科学・修復学」を担当してこられた西山要一・奈良大学文学部教授が、「中東レバノンの遺跡を修復する──協働を通して相互理解を深める──」という演題で、スライドも使って、約1時間20分にわたって講演されました。その講演の要旨を紹介します。

(1)レバノンという国について

5000年前に、すでに優れた文明が

日本では、レバノンといってもあまり知られていませんが、地中海の東の端に位置しており、5000年前には、すでに優れた古代文明があったといわれるところで、東西南北の文明の十字路として栄えたところです。首都ベイルートの南約80キロにあるティールはフェニキアの中心都市として栄えた港町で、ここを拠点に航海上手のフェニキア人は、地中海を縦横に往来し、各地に植民地をつくっていったといわれています。

多民族国家で、政治状況は日本とはかなり違いますが、私が接したレバノンの人々は、家族愛、豊さ、平和を求めており、その点では日本の庶民と変わりはありません。人口は400万人、同じほどの国民が海外で活躍しています。面積は1000平方キロ。

国の南北を高度3000メートルの級の山もあるレバノン山脈が貫いており、その西側は、地中海からの湿っd0117895_19385831.jpgた空気がその山脈に当たって降雨量の多い地域で、有名なレバノン杉が育ち、それがガレー船など船舶をつくる木材となりました。現在でもレバノン山脈のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観とも言われています。カディーシャ渓谷は、レバノン杉が現在も自生している地でもあります。山脈の東側のベカー谷はリーブ、ブドウなどがとれ、さらに東のアンチレバノン山脈をこえるとシリアとなります。

航海術にたけたフェニキア人

d0117895_19424914.jpg海岸に沿って、北からトリポリ、ジュベイル(ビブロス)、ベイルート、サイダ ティールと、船で1日行程海の間隔で港湾都市が連なっています。南のエジプト文明、北西のギリシャ文明、東に行けばチグリス・ユーフラテスのアッシリア、古代ペルシャ文明などが行き交う、まさにその十字路にレバノンは位置しているわけです。

その一つの証が「レバノンの入口」にたとえられるナハル・エル・カルブ(ドッグリバー)の岸壁に、古代から近代までの征服者が刻した碑文が残っていることです。古代エジプト第19王朝のラメセス2世(位前1304頃~前1237頃)からナポレオン3世(位1852~70)まで、ここに名を刻んだ歴史上の人物は枚挙に暇がありません。

レバノン周辺は、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にかけて、都市国家を形成し、地中海を舞台に活躍したフェニキア人の地でした。紀元前9世紀~紀元前8世紀にかけて、内陸の国である、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア地方の諸都市は、政治的な独立を失っていきました。その後は、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、アラブ、十字軍、オスマン・トルコの支配下に、そして第一次世界大戦後はフランスの統治下におかれるなどの変遷をたどっています。第二次大戦後に独立をかちとりますが、イスラエルの建国にともない、イスラエルとアラブ諸国との間で起こった、第1次中東戦争により、イスラエル軍に追われ、難民となったパレスチナ人が、レバノン、ヨルダン、シリアへ避難しました。レバノンに避難した PLOやパレスチナ難民とイスラエルとの紛争などを通じて、たびたびレバノンはイスラエルの攻撃を受けることになります。この緊張状態は現在も続いています。

ヨーロッパの人たちから見て、文化発祥の地

ヨーロッパの人たちは、レバノンを「文化発祥の地」「日の昇る地」と呼んでいます。というのは、ビブロスに残る王の墓から発見された石棺に22の子音による最古のフェニキア文字が刻まれているからです。BC13~12C、東地中海一帯を政治的混乱に陥れた「海の民」の攻撃を受けてエジプトの勢力が弱体化すると、フェニキアの諸都市は独立的な都市国家となり、その黄金時代を迎えました。

d0117895_1944577.jpgフェニキア人は1つの文字が1つの音を表す表音文字を使うようになりました。そして地中海全域を行き来していたそのフェニキア人によって、各地に伝えられ、ギリシャ文字、ラテン文字など、改良されて現在のアルファベットの形になったのです、そこから「文化発祥の地」といわれているのです。
ビブロスの名は、パピルスを意味するギリシャ語です。また、聖書(バイブル)の語源でもあります。

レバノンの5つの世界文化遺産

レバノンで世界遺産に登録されているのは、いま述べたビブロス遺蹟を含めて、バールベック、アンジャル、ティールの4ヵ所。そして自然遺産のカディーシャ渓谷(聖なる谷)と神の杉の森(ホルシュ・アルゼ・ラップ)の5つがあります。

ビブロスは海洋交易民族のフェニキア人が築いた7000年の歴史を持つ古代都市遺跡が残っています。ビブロスは、泉を中心にした町で、紀元前2世紀頃のビブロス王の墓、紀元前2800~2600年頃のオベリスク神殿、ローマ時代の円形劇場や列柱発掘されました。

バールベック遺蹟には、ローマ帝国が造ったジュピター神殿や、バッカス神殿、ヴィーナス神殿があります。

アンジャル遺蹟には、広大な地域を支配していたウマイヤ朝(661~750年)の第6代カリフ(後継者の意)であったアル・ワリード一世が7世紀後半に建設したレバノンに唯一残るウマイヤ朝の都市遺跡があります。
ティール遺蹟には、神殿や列柱、凱旋門、水道橋、大浴場、劇場、墓地、戦車競技場などが残っています。

レバノン山脈最高峰のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観ともいわれています。「カディーシャ渓谷と神の杉の森」は世界文化遺産登録名で、レバノン杉が現在も自生している地です。カディーシャとは「聖なる」という意味です。写真はそのレバノン杉です。

           
(2)レバノンでの遺跡修復活動

ティールの世界遺産地区の東、約2キロメートルのラマリ地区で、奈良大学の考古学調査隊は、2002年度から現地の協力も得て、ローマ時代の地下墓、堀込墓の発掘にとりくみ、テラコッタの神像などを発見しました。

2004年度から、同地区で、西山要一を代表者とする奈良大学保存修復隊が、壁画地下墓TJ04の保存修復研究をおこない、2007年度に修復を完了しました。

壁画地下墓T.01の発掘、調査、修復

そして、2009年度から新たに同じティール市郊外のブルジェ・アル・シャマリ地区にある壁画地下墓T.01の発掘、調査、修復に、奈良大学とレバノン考古総局との共同研究としてとりくみました。今日はT.01遺蹟の発掘と修復、調査などについて報告します。

d0117895_19464957.jpg壁画地下墓T.01は、ラマリ地区の壁画地下墓TJ04の南、約1キロの丘陵の斜面にあり、その北には民家が隣接していました。地上表面と地下墓室へ下りる階段には草が生い茂り、瓦礫の捨て場になっていました。墓室入口の保護鉄扉は腐食して著しく損傷していました。墓室に入ると、床には岩盤掘込石棺の蓋石や破壊された土器が散乱しており、天井は崩落していました。4つの壁にある壁画も2割ほどが剥落していました。

それでも残っている壁画には、鮮やかに彩色された孔雀・鳥・魚・パン・壺・花などとともに、ギリシャ語で書かれた碑文がありました。これら残されていたものは、この地下墓の価値と保存することの重要性をはっきりと示していました。

2009年度は、壁画地下墓T.01の記録作成に重点を置いて調査をおこないました。横長の平面プランの墓室には岩盤掘込石棺6基と甕を据える坑があり、床はモザイクで飾られていました。またモザイク床にはこの地下墓の築造年が描かれていました。それによると紀元196~7年であることがわかりました。

2010~1年度は、遺構の記録や出土遺物の整理、保存環境調査など、基礎データーの収集整理にとりくむとともに、壁画のクリーニング、出土人骨の鑑定、地下墓室内の微生物の調査などをおこないました。また、地表にあった石切り遺構、岩盤掘込石棺の調査もおこないました。この時、地下墓および地表遺構の三次元測量もおこない、実測図を作成しました。

壁画地下墓T.01の調査内容

壁画地下墓T.01の調査で採集された遺物は、壺、ワイン壺、ランプ、ガラス瓶、壁画、モザイクなどの断片など600余りに上ります。それぞれ写真撮影や実測図作成をおこない、機種や時代を検討しました。

ガラスや顔料などの組成元素分析をおこないました。最初の調査で出土したガラスなど7件・12点を、レバノン考古総局の許可を得て、奈良大学に持ち帰り、蛍光X線分析装置を使って分析をおこないました。アラスはアルカリ石灰ガラスでローマ時代の特徴を示し、顔料の赤はベンガラ、緑は緑土とわかりました。

墓室内の床と、岩盤掘込石棺より発見した人骨を鑑定しました。鑑定の結果、棺に納められていたのはいずれも成人の人骨であることがあきらかになりました。放射性炭素年代測定法による測定もおこない2世紀頃のもとと推定されました。

カビ・バクテリアは、文化財を損傷する要因の一です。特に壁画にカビが生じると、彩色が変色・褪色して風合いを失うばかりでなく、壁画そのものが消滅することになりかねないので、修復完了後の保存計画に組み込むために、その調査を念入りにおこないました。その結果、数十種のカビを検出しました。

墓室内の温度・湿度の連続測定をおこなうなど、保存環境の観測をつづけました。発掘・調査にともない、温度・湿度の変化は、やはり増えていました。扉を閉じて人が出入りしなければ変化は緩やかなものと予測されました。墓室内の安定した湿度と温度と日光が射しこまないことが壁画の鮮やかさを保ってきたことがわかりました。

壁画の赤外線写真撮影

1800年の歳月を経た地下墓の壁画は、発掘調査をした時点でも、色彩が鮮やかに残り、作られた当時の華やいだ墓室を髣髴とさせるものがありました。しかし仔細に観察すると壁面は、表面を白い石灰質の膜が覆っており、茶色の土汚れが付着し、鮮明さを失っているところも少なくありませんでした。
そこで、オリジナルの壁画を画像で再現するために、軽便なデジタルカメラによる赤外線写真撮影を試みました。

その結果、西壁の孔雀の体の描線、足で踏みつける草花の茎、口に片方を咥える花綱が鮮明に映りました。また東壁の壺のスタンドや全体の描線、筆から垂れ落ちたような黒いシミなどが鮮やかに映し出されていました。北壁の逆さ吊りの鳥の翼や体の描線、口から筋となって滴り落ちる血の描写も判明しました。

壁画とその修復

d0117895_195019.jpg壁画のクリーニングすすめたところ、南壁東側に「さらばリューシス、誰だって死ぬのだから」(左の写真)という碑文が鮮明になるとともに、その下にリューシスの肖像が描かれていることが分かりました。

また墓室のモザイク床には「元気だせよ、誰だって死ぬのだから 322年」という碑文(右の写真)がみつかりました。ティール暦322年は西暦では196/197年にあたります。このほか、漆喰壁の強化、壁面の浮き上がりや亀裂の修復に、日本の文化財修復士とイタリアの文化財修復家がとりくみました。

地表部掘込石棺墓の調査

地表部掘込石棺墓は、岩盤をくりぬき、その上に蓋石を乗せた構造になっていました。多くが盗掘にあっていましたが、一つだけ奇跡的に盗掘を免れていました。その墓の蓋をとりはずし、流れ込んだ細かい土を慎重に取り除いていったところ、石棺の半分が石で覆われており、それをさらに取り除いたところ被葬者の膝付近の側石に寄りかかるように裏返しの陶製のマスクがみつかりました。

d0117895_201517.jpgマスクは、縦の長さが23センチ、横幅17センチで、顎にはひげをはやし、頭に二本の角をもち、耳の上部がとがり、こわもての様相です。その特徴から、牧羊神パンだと推定しています。
 マスク以外に、ティールの紋章のあるコイン、貝殻、ガラス玉260個などが発見されました。

国際的・学際的な協力による調査活動

今回の調査は、日本側からは奈良大学の保存科学に携わる者に加えて、他の大学などの考古学者、人類学者、微生物学者、三次元測量学者、それに文化財修復しなどが参加しました。レバノン側からもレバノン文化省考古総局の担当官、レバノン大学などの考古学・遺跡修復の教授、美術史・絵画修復の教授、イタリアの文化財修復家、韓国の保存科学者など、国際的・学際的協力でおこないました。

現地での修復作業は、ワーカーや商店やレストランの人々、軍や警官との出あい、そして彼らの家族との親密なつきあいに導いてくれます。これこそが、他民族・他文化とのほんとうの交流ではないでしょうか。

国際色豊かな壁画調査・修復チーム
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# by naraala | 2012-10-14 20:02 | 講演会

遺跡保存の講演とアラビア音楽ライブ

「レバノン遺跡の修復」講演と
「アラビア音楽」ライブ

約30人が参加

 奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(ナラーラ)は、8月12日(日)午後2時から、奈良市南京終町にある「おかたに病院多目的室」で、表記のつどいを開催しました。取材に来られた新聞記者も含めて約30人が参加しました。
 あいさつに立った宮城恭子理事長は、「世界は広い、知らないことがいっぱいある。大いに学び、見聞を広めて、活動を進めていこう」とあいさつされました。

スライドを使って分かりやすく説明 
 

 西山要一・奈良大学教授は、「中東レバノンの遺跡を修復する──協働を通して相互理解を深める──」 という演題で、日本の人たちには、縁遠いと思われている中東レバノンという国がどういう歴史をもった国なのかを詳しく説明されました。
d0117895_104834100.jpg スライドを使って、地図や写真を示しながら、6000年余り前から優れた文化をもった国であること、文化の十字路という位置にあって、東西南北の文化が行き来した要となっていたこと、遺跡のなかには、レバノンを征服した歴代の人物の碑文が岩壁に残されていることなどを説明されました。
 そして、同国のティールの近郊で、西山教授を責任者とするブルジュ・アル・シャマリにある地下墓の発掘、調査、修復にとりくんだ内容について、これもスライドを使い、地下墓の三次元計測図などの図面や写真、壁画の内容、棺から発見したマスクなどを映像を示しながら、詳しく説明されました。
 この調査が、国際的・学際的協力によって成功を収めたことを示しながら、「協働をとおして相互理解を深めあった」ことが示され、感動を呼びました。
 参加者は、はじめて見るレバノンの様子や、地下墓や遺物の写真などを食い入るように見つめながら、熱心に講演を聞いていました。(講演の要旨は別掲の予定)

異国情緒をおおいに楽しむ

 講演のあとは、「アラビア音楽」のライブで、音描き屋(ねがきや)しんごさんの中東の弦楽器「カーヌーン」の演奏と、サンペーさんの打楽器レクの演奏をたのしみました。
 白の服と白のターバンを巻いたしんごさんは、74弦の「カーヌーン」を巧みに操り、繊細な音色をひびかせていました。d0117895_10504857.jpg
 レクのサンペーさんも、伴奏だけでなく、ソロとしての演奏もおこない、参加者を大いに楽しませました。
 演奏の途中休憩のときも、終わってからも、楽器をどうやって弾くのかなど、質問がやみませんでした。
 アラビアの音楽をはじめて聞くという人も。大いに演奏を楽しみ、演奏されたお二人も、「とても気持ちのよい演奏会だった」と、終わってから感想をのべておられました。
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# by naraala | 2012-09-29 10:52 | 行事

講演とアラビア音楽ライブ

講演「レバノン遺跡の修復」
「アラビア音楽」ライブ
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真夏のひとときを大いに楽しみましょう!
どなたでも参加で得来ます。ぜひご参加を!


終わりました

日 時: 2012年8月12日(日) 午後2時
場 所: おかたに病院二階・多目的室(地図は「おかたに病院」で検索してください)
参加費: 1,000円
      会員(当日入会者も含む)と
高校生以下は500円


d0117895_10553533.jpg講 演

『中東レバノンの遺跡を修復する
─協働を通して相互理解を深める─』
スライドを使って分かりやすく説明されます。
西山要一・奈良大学教授
文化財を人文科学・自然科学など多面的に研究する保存科学・修復学を担当



アラビア音楽のライブ  
  
   

   演  奏
     音描き屋しんご(ねがきや しんご)  カヌーン
     サンペー   (さんぺー)      レク
       古典から現代まで、幻想的なアラビアのメロディーを奏でます。


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主  催  奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(ナラーラ)
問合せ先: 宮城恭子(090-2709-8606) 真下 均(0742-24-2213)

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# by naraala | 2012-07-11 11:22 | 最新のお知らせ

集中講座 アフリカ問題

「アフリカのこと
丸ごと知りたい」


AALA常任理事の高林敏之さんを講師に
連続講座


ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)は3月25日、奈良市内で、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会常任理事・西サハラ問題研究室主宰・早稲田大学非常勤講師の高林敏之さんによる「アフリカのこと丸ごとを知りたい」と題する集中講座を開き、会場いっぱいの50人が参加しました。

集中講座は、①アフリカ近現代の歩みを知るために、②アフリカ民主化の波と「北アフリカ革命」、③アフリカは日本とどう関わってきたか──の三つの柱で、4時間余りにわたっておこなわれました。わかりやすく、しかも丁寧ない説明に、参加者は耳を傾け、熱心にメモを取る姿も多く見られました。

以下、高林さんの講義の要点を紹介します。


第一講義──アフリカの近現代の歩みの特徴

アフリカの多様性を理解することの重要性

「アフリカ」というと、ひとくくりにして語られたりすることが多いが、面積でいえばアジア全体に匹敵し、総人口は約10億人、人種も多種多様で、言語集団も800から3000ともいわれる多数の民族が住んでいる大陸である。現在、「サハラアラブ民主共和国=西サハラ」を含めると55の国からなっている多様な地域である。このことをまず認識してほしい。

アフリカに引かれた人為的な国境線

アフリカの政治地図についていえば、19世紀にヨーロッパの列強によって、アフリカを植民地として分割する支配が始まり、民族や歴史的背景とほとんど合致しない人為的な国境線が引かれ、それが今日にいたるいろいろな矛盾の要因となっている。

そのアフリカの植民地化も、時代的にはアジアや中南米の植民地化に比べて比較的新しく、ヨーロッパやアメリカでの産業革命による機械制大工業の発展にともない、16世紀から続いていた奴隷貿易が終息するなかで、19世紀末から20世紀の初めにかけて、ヨーロッパ列強によってあらたな植民地化として進められた。探検→宣教→軍事侵略という形で進められ、その仕上げが1984年から1985年にかけて開かれたベルリン会議で、分割境界線が確定された。

そのなかでも、ベルギーのレオポルドⅡ世が、コンゴをみずからの私有地植民地としてゴム生産を独占した。そして、ベルリン会議がレオポルドⅡ世の支配を容認した。その結果、ゴム生産における強制労働や虐殺がおこなわれたのは特徴的である。

抵抗の歴史と独立の経緯──その裏面も

そのように植民地として分割支配されるなかでも、アフリカはたんに「奴隷化され植民地化された」地域として存在しただけでなく、そこにはさまざまな抵抗の歴史があった。そして、第二次世界大戦が終結した後、つぎつぎに独立を獲得していったのである。その抵抗の多くが、ナショナリズム政党による不服従運動や労働運動などを通じての非暴力的闘争で独立をかちとっていったのである。それに比べて、ヨーロッパ系入植者の多い国では激しい武力闘争もおこなわれた。

1960年は「アフリカの年」といわれるように、一気に17カ国が独立をかちとった。それは、アフリカの栄光の姿といえるが、その裏面もよく見ておかねばならない。とくにフランスがその植民地だった国々に、「独立」や「自治」を付与するのと引きかえに、それらの国々をフランスの経済的支配下に置く「フランコフォ二―」(フラン圏)を作ったことを見ておかなければならない。それは、それらの国々にあった「アフリカ・ナショナリズム」の動きがドゴールに屈して敗北したことのシンボルでもあった。

現代アフリカに関する「誤解」

現代アフリカに関してはいくつかの「誤解」がるので、解明しておきたい。

白人の入植はごく一部


その一つは、「アフリカはプランテーション(入植地)制のモノカルチャー経済」だという「誤解」についてだ。

一部地域を除いてアフリカは、ヨーロッパ人にとっては居住に適さず、それらの地域への本格的な白人の入植はおこなわれなかった。それらの植民地では、課税と間接統治を通じて、現地農民に商品作物の生産や、アフリカ台地に眠る鉱物を掘り出すための鉱山労働に従事させるという支配の形態をとったのが実態だ。

プランテーションが存続したのは、南アフリカ、ジンバブエ、ケニア高原などである。これらの国々では、現地住民の土地収奪がおこなわれ、それにたいして現地住民による白人入植者に対する激しい抵抗がさまざまな形で長年にわたって続いた。それを白人たちが暴力で抑えつけたのである。

民族紛争という表現

もう一つの「誤解」は、「アフリカの紛争は民族(部族)紛争だ」という表現がなんの躊躇もなく使われていることだ。

ヨーロッパ列強が確定した国境線を「ネエイション(国民)」形成の枠組みとしていることからアフリカ人を「ネイション段階に達していない」と一方的に規定した概念として「部族」という言葉が使われている。これは大きな間違いだ。

同時に、植民地単位で独立したアフリカ諸国の指導者やエリートのなかにも、「部族」概念の呪縛を抜けられず、「部族主義の根絶」と「国民統一」の名目で、一部指導者による独裁体制を正当化する動きがあったことも見ておかなければならない。


第二講義──アフリカ民主化の波と「北アフリカ革命」

北アフリカで2011年に、チュニジアを皮切りにエジプト、リビアと続いた革命の波が、もっぱら「アラブの春」の一環として語られている。それらの諸国がアラブ世界の一部をなしていることは事実だが、同時にアフリカ大陸に位置するという事実を軽視すべきではない。

なかには「(アラブの春)が独裁体制の多いアフリカに波及する」という言説さえ見られるが、そういう認識は、1990年代以来アフリカにおいて着実に前進を遂げてきた民主化の事実を無視するもので、「アフリカの後進性」という誤った固定観念の産物だ。

アフリカを覆いつくした独裁体制

独立後のアフリカ諸国を、1980年代までは、一党独裁体制が覆いつくしていた。その体制を正当化する論理は次のようなものであった。

その論理の第一は、「国民(ネエイション)の統一」というものだ。アフリカ諸国のほとんどが、ヨーロッパ列強による植民地分割によって国境線が画定され、それが独立した国のスタートとなっているために、国内には多様な民族・言語・文化をかかえていた。ナイジェリアやスーダンのように数百の民族を擁する国もあるぐらいだ。逆に一つの民族が複数の国に分断されている例も珍しくない。ソマリア民族は4つの国に分断されている。

こういう状況の中で、国境を再画定することは不可能である。そこから「分けられた地域単位でネエイションをつくるべきだ」と、多民族国家を一つに「統一する」、「団結する」というところから、多党制を否定する論理となっていった経緯もある。

いま一つは「アフリカ社会の共同性」という論理である。階級闘争に否定的な「アフリカ社会主義」の基盤となるものだった。

また、1960年に勃発したコンゴ動乱で、南部の鉱山地帯のウガンダ州が、欧米資本や傭兵の支援もとで分離独立を宣言したことから、「植民地主義者の分裂策動をふせぐため」という名目で「部族主義」「分裂主義」への対抗として独裁体制がつくられるという事態もあった。

一党独裁の実態は、國民の富の横領・独占

そうしてできた体制が、国民の利益を擁護するものだったのかといえば、まったく逆だったことが明らかになった。
一党独裁体制は、大統領など最高権力者・統治者の親族・取り巻きや出身民族などを、国家の限られた権益に優先的にアクセスさせる装置となり、「パイの平等な分配」ではなく、富の独占・横領が常態化し、政治腐敗と人権抑圧を蔓延させるにいたった。そして、この権益から疎外された民族や国民の異議の申し立てに対しては、「部族主義」のレッテルを貼って弾圧するにいたったのである。

こういう体制のもとでは、国民の信頼を失った政権を、選挙を通じて交代させることは不可能で、暴力的手段や民衆蜂起によるしか政権交代の道がなく、いわゆる「世直し」の期待を背負った軍事クーデターの続発と軍事独裁政権の続出となった。しかし、当初は革新の期待を背負った軍人の指導者たちも、多くは倒した政権と同じ道をたどり、新たな独裁体制を敷いて大統領に居座り続ける事態となったことが長期にわたる暗黒の時代をつくりだした。

1990年代には政治的地殻変動が

1963年には、「アフリカの共同」を追求する組織として、「アフリカ統一機構(OAU)」が創立されたが、その機構の「原則」とされたもののなかに「内政不干渉」があった。大国の干渉を排除するという積極面もあったのだが、もう一面で、アフリカにおいてそれぞれの国でおこなわれた人権侵害や反民主主義体制、クーデターをこの原則で容認するという弱点も生み出した。その「内政不干渉」の原則の限界が明らかになるなかで、2002年にOAUを改組して「アフリカ連合(AU)」が誕生し、クーデター政権の資格停止を「憲章」に明記、早期に民政への復帰を促すなどの措置が取られるようになった。これは大きな前進だった。

そのきっかけとなったのは1990年代で、ナミビアの独立、エリトリアの独立、南米のアパルトヘイト終焉など、アフリカには地殻変動といっていい政治的変化がおきたことである。そこから一気に多党制が実現し、十数カ国で与野党の政権交代がおこなわれ、過半数の国で、国際的にも「民主的」と認められる定期的な選挙が実施されるまでになった。

そして「アフリカの結束によってこそ、アフリカの国としての力を示せる」ことに確信を持つようになり、アフリカの協働への前向きの変化が起きている。クーデターの起こるケースも2000年には激減した。

AUの諮問議会として「パン・アフリカン議会」が設置されたが、これは民主化が定着した国々の声をAUに反映していく機関となった。また、AUの下位地域共同体として「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)」や「南部アフリカ開発共同体(SADC)」が形成され、それらの地域では民主化が大きく進展した。それに比べて、北部、中部、東部での立ち遅れが目立つ。


民主化の立ち遅れた北部で「北アフリカ革命」が

2011年の「北アフリカ革命」は、1990年からの20年間に進展したアフリカ民主化の波が、北アフリカに達して起こったものだということを認識しておく必要がある。非民主的な政権獲得や居座りを否定し、選挙民主主義を支持する政治文化が、アフリカに着実に広がりつつあるからこそ、北アフリカ諸国における暴力による政権維持を許さないという圧力は、西アジアのアラブ諸国とは比較にならないほど強力なものとなり、それが政変を引き起こした。

さらに、サハラ以南のアフリカの民主化の状況は、アラビア半島に位置するアラブ諸国の権威主義体制とくらべ、特筆すべきものである。とくにバーレンでの民主化運動を粉砕するために「湾岸協力評議会(GCC)」が軍事介入をしたことや、モロッコの西サハラ軍事占領の事実がそれを示している。

そして、北アフリカの民主革命は、将来、アラブ全体に波及するとともに、アフリカに残っている独裁体制にも圧力として還流する歴史的可能性を含んでいる。

アフリカおよびアラブ諸国の民主化状況

国際NGO「フリーダム・ハウス」のFreedom in the World2011年度版による「政治的権利・市民的自由」の7段階評価の数値を使い、北アフリカ、西アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アジアに分けて、各国の民主化度を示す表を提供したが、それによるとアフリカに比べて西アジアの民主化が大きく遅れていることが一目瞭然である。


第三講義──アフリカは日本にどう関わってきたか

「手が汚れていない日本」は本当か

ポスト冷戦時が明確になった1993年以来、日本は「アフリカ開発会議(TIDAC)」を5年に一回開いてきている。日本政府、なかでも外務省は、日本のイニシアチブで開かれているこの会議を、「より大きく長期的な日本の国益を実現させる為の一つの手段」と位置付けてきた。そして、日本が行うアフリカ外交は、「利他主義」に基づく援助外交に他ならないというイメージづくりに力を入れ、そのイメージがあたかも実体であるかのように一人歩きし始めるにいたったのである。しかし、はたして「手が汚れていない日本」は本当か。

植民地主義の立場に立った戦前の日本

遡れば日本は、少数の白人が支配する南アフリカ政権と密接な関係を持ち、1910年にはケープタウンに「名誉領事館」を開設した。アパルトヘイト体制の南アとの主要な貿易相手となったのである。1935年ごろには、他の黄色人種とはちがって、「名誉白人」とよばれ、白人しか出入りできないところへも「ジャパニーズ」を振りかざして、出入りしたのである。まさに植民地主義者の立場に立っていたといえる。

さらに、第一次世界大戦でドイツが敗れ、ベルサイユ講和条約が締結される際には、旧ドイツ植民地分割で、主導的な役割を果たしたことも見ておかねばならない。ナミビアの併合を強く要請する南ア政府と協働し、太平洋の赤道以北の南洋諸島を、日本の信託統治下に置くことを要求、日本帝国の法規がこの地域では適用されるという「C級委任統治」という形で「併合」を実現したのである。これは戦後のことになるが、南アによるナミビア占領支配は1990年まで続いた。その間、国連ナミビア理事会のもとにナミビアはおかれる建前になったのだが、南アの不法占領は続き、そこで産出されたウランを日本の原子力公社は南アから買い付け、それが日本国内の原発に使われている。

欧米列強による植民地の国境線を確定させたベルリン会議の際には、日本は列強の一つとして、アフリカにおける他の植民地保有国とともに、アフリカ植民地での経済的権益獲得に参画して「コンゴ盆地条約」を締結させた。

戦後のアフリカ外交は「西側陣営の一員」として

戦後の日本のアフリカ外交の特徴は、「資源重視、人権・自決権軽視」にある。

アパルトヘイトを取り続ける南アの白人政権と密接な関係を持ち、南アの世界最大の貿易相手国が日本だったのである。戦前から続いて「名誉白人」という扱いを受け続け、非同盟諸国会議などで日本は名指しの批判をうけた。

南ア、旧ポルトガル植民地、西サハラなどでの民族解放運動を、国際的には「準国家」として扱っているのに背を向けて、それに対し「反乱国民」と否定的な姿勢を取り続けている。

さらにザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ政権、ニジェールのクンチェ軍事政権、マラウイのバンダ政権、ケニアのモイ政権や、モロッコ王国、エチオピア帝国など、親西的な独裁体制との友好関係を日本は取ってきた。

これらの事実の根底にあるのは、植民地支配者の目線でアフリカを見ている「ユーロアフリカ的外交政策」にある。

今も変わらぬアフリカ外交

講義の冒頭に述べた「アフリカ開発会議((TIDAC)」も、援助提供者主導が露骨なプロセスであり、「アフリカ連合(AU)」を2011年まで共催者に加えず、「アフリカのオーナーシップ」と「パートナーシップ」の尊重という建前に背反する姿勢を日本政府は取り続けてきた。

「開発の権利に関する決議」「グローバリゼーションと全ての人権の完全な享受に対するその影響に関する決議」「民主的で平等な国際秩序の促進に関する決議」など、非同盟諸国が主導する国連総会の関連決議に、他の欧米諸国とともに一貫して反対してきている。

また、債務減免や途上国産品への市場開放に対する消極姿勢も顕著だ。中国がアフリカの農産物について95%を無税にしていることとくらべると、日本の姿勢はほんとうにアフリカの利害を考慮に入れているのか疑わしい。

さらに、アフリカが求めている「普遍的人権」も背を向けていることについても、「人種主義的実行の不認容に関する決議」への反対、「人権を侵害した人民の自決権行使を妨げる手段として傭兵の利用に関する決議」への一貫した反対、「人権と一方的な強圧的措置に関する決議」への一貫した反対などなど、アフリカなど第三世界側が提起する国連総会への人権関係決議に、日本は否定的投票行動をしめしてきた。

ソマリアの「海賊問題」での日本の行動の危険

ソマリアでは、いま無政府状態が続いているが、それを利用して、諸外國の船舶が、ソマリアの海域に放射性廃棄物、カドミウム、水銀など有害廃棄物を投棄したり、水産資源の乱獲をおこなったりしている。これは国連事務総長ソマリア特別代表や国連環境計画、国連食糧農業機構などの報告でも明らかにされていることで、まさに「海賊」はこうした諸外国の船舶の違法活動にこそある。

「無辜の民」はソマリア人たちであって、ソマリア人の資源を奪い、生活を脅かし、災厄をもたらした船を守るために、ソマリア人たちを排除し、処罰しようとする諸外国海軍による「海賊対処」行動は、ソマリア人にとっては、不当な抑圧であり、本末転倒である。

しかも日本の自衛隊がソマリアに出動する根拠とされている「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」では、「海賊」を日本の法により拘束し処罰できることを定めており、ソマリアに限定されない恒久法となっていることもみておかねばならない。まさに、世界的な治安出動と、現地人処罰を可能にした法律であることから、日本国憲法の9条を真っ向から否定するものだ。

また、自衛隊はジブチにその基地を置いているが、ジブチ政府との間では「交換公文」によって日本人要員が起こした事件に関する司法権は全面的に日本が握るという在日米軍の日本での特権を上回るような治外法権を押し付けたのである。

ソマリアの「海賊問題」を利用しての抑圧的な軍事行動と、植民地主義的な地位協定による自衛隊の世界展開をはかるという事態は、「憲法九条は死んだ」という状態をつくりだしている。「憲法九条を復活させる戦いが必要な段階にいまは来ている」。

                                             (報告 西浦 宏親)
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# by naraala | 2012-06-22 15:25 | 講演会

第10回総会

第10回ナラーラ定期総会 

 3月25日、第10回定期総会を行い、以下の内容について確認しました。
なお、総会の前に記念講演「アフリカのこと丸ごと知りたい」をテーマとして高林敏之氏に講演していただき、50名参加のもと熱心な学習会となりました。   (報告:真下 均)


1.前回総会以降の活動経過

2011年
10. 2 おかたに健康フェスタ
10.13 理事会
11.10 理事会
12.08 理事会
12.11 慰安婦問題学習会(80名)
12.12 AALA近畿ブロック会議
12.13 「新年会・文化行事」打ち合わせ
12.18 伊波洋一氏講演会(220名)
2012年
1. 1 奈良民報新年号に祝賀広告(5000円)
1.12 理事会
1.21 新年会「新疆ウイグル自治区の舞踊と歌、楽器演奏」(50名)
1.21 宜野湾市長選挙にカンパ(25000円)
1.24 AALA近畿ブロック会議
2. 9 理事会
2. 9 機関紙配達ルートの確認
2. 9 “いのち”から原発を考えるシンポジウムの賛同団体(1000円)
2. 9 「本土復帰40年、基地のない沖縄を!」の意見広告に賛同(5000円)
2.23 AALA近畿ブロック会議
3. 8 理事会
3.17~18 日本AALA全国理事会
毎理事会で30分学習。事業活動としてチョコレート、沖縄菓子、T-シャツ販売。
新会員2名、退会2名。会費納入状況は1名が未納。

2.2012年度の課題および活動方針

 2011年は国際社会が大きく動いた-まさに激動の時代に入ったことを現しています。「アラブの春」と呼ばれる北アフリカ・中東の変化、パレスチナ自治政府を支持する国際世論、横暴な金融資本主義の破綻と格差是正の運動の広がり、米国のイラク・アフガニスタンからの撤退、ASEAN共同体づくりの前進、ミャンマーにおける一定の新しい変化、米国抜きの中南米カリブ海諸国共同体(SELAC)の設立、世界経済における新興国(BRICS)の相対的地位の高まりがあり、政治では米国一極支配構造が崩れ始めていることを現しています。
 日本国内では「税と社会保障の一体改革」という名による年金・医療の切捨て、消費税増税、公務員給与削減と国会議員削減の押しつけ、米国に日本を売り渡すTPP交渉参加表明、米軍新基地建設への加担、原発事故「収束」宣言の強行、武器輸出三原則の緩和、自衛隊の南スーダンPKO派遣など米国・財界に忠誠を誓う民主党・野田政権の悪政が暴走しています。
 いま私たちは2012年をどうたたかい、どう生きるのかが鋭く問われています。
 勇気づけられる世界の変化を捉え、知り、学習し、日本の運動にどう役立てていくか、どう連帯していくかに力を注がなければなりません。

基本的な活動方針は、次に掲げる15項目に基づき活動をすすめていきます。

①脱原発と再生可能エネルギーの推進
②安保条約廃棄、在日米軍基地撤去、核兵器廃絶をめざした運動
③憲法9条を守り、自衛隊の海外派兵反対
④歴史的事実に基づき、アジア諸国民にたいする戦争責任と謝罪を日本政府に求める
⑤地球温暖化など環境破壊をくいとめる取り組みを国際連帯の立場ですすめる
⑥AALAをはじめとした諸外国との友好・交流
⑦目標や諸課題で一致する諸団体との協力・共同
⑧学習や講演会、文化的活動を重視した活動
⑨時期をみながらスタディ・ツアーに取り組む
⑩会員相互の交流を大切にする
⑪会員拡大に積極的に取り組む
⑫理事会の定例化を重視する
⑬ナラーラニュース、HPの充実につとめる
⑭収益性のいい、楽しめる事業活動に取り組む
⑮財政活動の健全化に努める

活動の重点としては次の3項目を掲げて取り組みます。

①AALA諸国との連帯はAALAだからこそできる活動です。多くの諸国民との友好・交流を深めるとりくみを行います。
② 学習活動は大きな力。情勢に見合った内容を企画していきます。
③ 運動を発展させるためにはなんといっても組織の強化が必要です。日本AALAのスローガンである「世界を知って日本を変えよう」のもと、多くの人に組織拡大を訴えます。
  当面、来年3月のナラーラ定期総会に向けて65名に、6月の「日本AALA第52回大会に向けて70名のナラーラ会員をめざします。

★ 2012年度の活動スケジュール  
   
2012年 5月   近畿AALA学習・交流集会
       8月   納涼会
     11月   講演会
2013年 1月   新年会
       3月   定期総会

3.2011年度会計報告及び2012年度予算

(内容略)

4.役員体制    

理事長   : 宮城恭子
事務局長  : 真下 均
事務局次長: 岡谷よし子、加藤東洋
理 事   : 井上清文、上村啓子、尾崎義美、北野重一、蔵元信子、鈴木康司、中尾一郎、西浦宏親、山崎直幸、山村弘成
会  計   : 上村啓子   
会計監査  : 中村篤子
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# by naraala | 2012-05-16 21:30