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アフリカ問題学習会

アフリカ問題学習会
「アフリカと日本──その現状と求められるもの」


主催: ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)
(終了しました)

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日   時: 3月22日(土)午後2時から4時
場   所: 奈良県文化会館第三会議室
講   師: 高林敏之氏  
 
           (西サハラ問題研究室主宰・アフリカ国際関係史研究者・日本AALA理事)
資 料 代: 500円(ナラーラの会員は、無料です)

予約なしで、どなたでも参加できます。

 アフリカのニュースを見たり聞いたりしていると、困難をかかえている国がすくなからずあり、そこでの問題が、アフリカ全体の印象を「紛争の多いところ」にさせているようです。でもチュニジアの粘り強い努力と交渉の結果にもとづく新憲法の制定にみられるように、明るい希望のエネルギーが、多く秘められている地域でもあります。
 2012年3月25日に、ナラーラは、高林敏之氏による「アフリカのこと丸ごとを知りたい」と題した集中講座を開きました。また2013年3月17日には、中東問題研究家の尾崎芙紀氏による「激動する中東情勢を考える──『アラブの春』の現状と展望」と題する講演もききました。今回の講演は、それらも踏まえながら、その後のアフリカの新しい動きも踏まえての、みなさんの興味、関心にこたえての講演です。
 ぜひ、誘いあってご参加ください。

問合せ: 宮城恭子 090-2709-8606  真下 均 0742-24-2213


ナラーラ第12回定期総会
講演会終了後、ナラーラの第12回定期総会を開催します。会員のみなさんはお残りください。
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by naraala | 2014-02-13 09:58 | 最新のお知らせ

今のチュニジア

満席、盛会の2014ナラーラ新年会
チュニジア共和国出身の
ジュイニ・ムニールさんが講演
 

 ナラーラの2014年の新年会が、南京終町のさくら診療所3階でひらかれ、用意した椅子席が足りなくなるほどの参加者で、盛会のうちに終わりました。

 最初に宮城恭子理事長があいさつに立ち、「安倍首相は財界・大企業をひきつれて、原発をはじめ製品の売り込みの中東やアフリカ、アジア各国をまわっているが、果たして、それが世界の友好や平和につながるのだろうか疑問に感じている。ナラーラとしは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの諸国人民のことを大いに知り、学びながら、友情、連帯とは何かを考える活動に取り組んでいきたい」と述べ、「その第一弾が、チュニジアのことを知る『新年会』で、最後までのご参加、ご協力を」と呼びかけました。

ムニールさんのお話

 ジュイニ・ムニールさん(34歳)は、チュニジア共和国出身で現在京都在住です。母国語であるアラビア語のほか、フランス語、英語、イタリア語に堪能で、日本語は現在特訓中だそうです。日本では合気道練習生の経験もあります。
d0117895_11295174.jpg お話はパワーポイントを使い、画像を示しながら英語でスピーチされたものを日本語で、パートナーの坂尾淳子さんが通訳するという形ですすめられました。
 最初は1956年にチュニジアがフランス保護領下から独立した時から歌われている「チュニジア国歌(祖国の防衛者)」が流れ、その軽快なマーチを聞いた後、お話は始まりました。歌中の重要な一節は、日本語では「民衆がいつ日か生を望んだならば、かならずや運命はこたえるであろう、かならずや夜は去り、鎖は砕け散るであろう」と訳されています。

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チュニジアという国

 チュニジアの面積は164,150㎢(日本の約5分の2)、人口は約1,100万人。隣国にリビア、アルジェリア、地中海の対岸北東にイタリアが面しています。公用語はアラビア語ですが、フランス保護領下時代の影響でフランス語も広く普及しています。イスラム教徒が98%、その他2%はユダヤ教徒やキリスト教徒等です。
 チュニジアの北部は、緑豊かで肥沃な穀倉地帯で、アラブにとって羨望の地でもありました。北岸と東岸は地中海に面し、陽光豊かなリゾート地でもあります。観光客もおおく、観光施設も多数あります。南部にはサハラの一部が国土となっており、砂漠やオアシス、渓谷など魅力的なところです。この南部にある先住民族ベルベル人の穴居住居は、映画「スターウォーズ」のセットにもなりました。
 アラビア語で「こんにちは」は「アッサラームアレイコム」、直訳すると「あなた方に平安を」です。返事は「ワアレイコムッサラーム」、同じく「あなた方にも平安を」です。
 紀元前2世紀からリビアとともにローマ帝国のアフリカ属州とされ、そのローマ時代の遺跡がたくさん残っています。「歴史的遺産の宝庫」といわれ長い間埋もれていたので、保存状態が良いと言われています。
 白亜の壁に窓や扉は青い塗料で彩られた鮮やかなコントラストの建物は、国内のいたるところで見られます。この窓や扉の青はチュニジアの青い空・青い海と並んで「チュニジアン・ブルー」と評されることもあります。

チュニジアの歴史と文化

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 伝説によると、紀元前9世紀、中東の海洋貿易民族のフェニキア人によってカルタゴが建国され、地中海貿易で繁栄しました。最初は女王だったといわれています。紀元前3世紀になるとローマ帝国と地中海の覇権を争うようになり、3次にわたるポエニ戦争の末、紀元前146年にカルタゴは滅亡します。以来、紀元439年までは、ローマ支配下のアフリカ属州となりました。
 7世紀には、イスラームのもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王と東ローマ帝国の連合軍を破り、アフリカをイスラーム世界に編入しました。7世紀から16世紀初頭までは、イスラーム王朝の支配下におかれました。そして16世紀にはオスマン帝国領となります。オスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ(=王族)」はオスマン政府から独立した統治を行うようになり、18世紀はチュニス君侯国がチュニジアに成立します。
 1861年に憲法が制定され、イスラーム地域及びアフリカ地域で初の立憲君主国となり、西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採ります。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折しました。
 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国によって認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、フランスの保護領「フランス領チュニジア」となります。
 20世紀にはいると、チュニジア独立を目的とする結社が創設されて発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動が展開されます。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件で独立を受け入れ、チュニジア王国が成立、独立を達成しました。しかし、翌年には王制が廃止され、大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。王制下の首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採りますが、長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン・アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉しました。

「アラブの春」の先駆け「ジャスミン革命」

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 チュニジアは、イスラーム諸国では比較的穏健な世俗的国家として、中東と西洋のパイプ役を果たしていました。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態でした。政権についたベン・アリーはイスラーム主義組織及び労働者共産党に対し抑圧を行い、ある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占・蓄財といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に国民のなかに不満がたまっていきました。革命後明らかにされた蓄財の実態は、画面で生々しく紹介されました。
 こうした背景のもと、「ジャスミン革命」がおこるわけですが、その直接的、かつ決定的な要因は、2010年12月17日、中部の都市でおこりました。この日の朝、露天商のモハメド・ブアジジ(26歳)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして地方役人が野菜と秤を没収、さらには役所の女性職員から暴行と侮辱を受けました。彼は三回、没収された秤の返還を求め役所に行きましたが、引き換えに賄賂を要求されました。三回とも追い返された彼は、これに抗議するために同日午前11時30分、県庁舎前で自分と商品を積んだカートにガソリンをかけて火をつけ、焼身自殺を図ったのです。その場に駆け付けたモハメドの従兄弟アリ・ブアジジが、事件直後の現場の様子を携帯電話で撮影し、その日の夕方、フェイスブックへ映像を投稿しました。「アルジャジーラ」で事件が取り上げられ、一人の青年の焼身自殺が全国に知れ渡りました。イスラーム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じており、また火葬の習慣もないので、「焼身自殺」が与える衝撃は大きなものがありました。 
 ベン・アリーの退陣要求デモが全土に拡大する中、警察は国民を弾圧する側に回りましたが、軍が離反して国民の側につき、ついにベン・アリーと一族は国外に脱出、モハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命します。この一連の事件が「ジャスミン革命」と呼ばれているのです。
 国民の人生がみじめなのに、一族による利権の独占・蓄財といった腐敗が誰の目にも明らかとなり、国民は、その生活と自由、自らの誇りと尊厳を求めて運動に立ちあがったのです。

現在のチュニジアの政局

 2011年の「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアでは選挙を経て同年末にアンナハダ主導の暫定政府が発足して以降、野党勢力が政治の「イスラーム化」に反発。2013年2月と7月に野党指導者が何者かによって相次ぎ暗殺されてからは対立が決定的となり、反政府デモが断続的に取り組まれてきました。
 その後、10月、労働総同盟(UGTT)の仲介で、与党と野党の「国民対話」が始まり、12月14日には、現産業相で無所属のメフディ・ジョマア氏を新たな暫定政府首相に指名しました。同氏は18日には中立政府の組閣を開始。「透明で信頼に足る選挙の実施」「経済危機の打開」に向けた決意を表明しています。
 憲法にイスラーム法をいれるか、いれないかでの対立が続いているわけですが、「問題は山積していますが、革命は表現の自由など重要な成果も生み出しています。市民として成熟しつつある国民が政治への関与を強めていけば、道は開けるでしょう」。「ブアジジさんのように革命に命をささげた人のためにも、ここであきらめるわけにはいきません。私たちは社会的公正という目標を実現するまで声を上げ続けます」という識者の意見もあり、いまはなお、不安定ですが、再構築が進んでいくでしょう。

すべての人々が幸せな暮らしができるように

 ムニールさんは、約1時間半にわたる話の最後を、イスラームの預言者ムハンマドの「我々(イスラム教徒=ムスリム)はまるで一人の人間のようである。もしも誰かが傷ついたり病に伏せたりしたら、彼らが回復するまで我々は気の休まるところがない。イスラームは誰もが生まれながらに自由であり、誰しも他人の支配下のおかれることはない。」という言葉を引用し、また「地上のすべての人々が幸せなくらしができるように、力を合わせていきたい。平和、よりよい生活、喜び、自由を願います。」と述べて話をしめくくられました。

 この後、ムニールさんが作られた、「タジン(チュニジア風オムレツ)」と「ハーブ入りパン」をいただきました。d0117895_11224261.jpg参加者からも「とてもおいしかった」という言葉もムニールさんに贈られました。
 続いて、「チュニジアの主要な産業は農業と鉱業で、最近は外資が入ってきて加工産業も増えてきている、食料自給率は100%超で小麦やオリーブは主要な輸出農産物です。」「ベン・アリーの蓄財はチュニジアの国の財産になりました。」「ベン・アリーはサウジアラビアが受け入れている、裁判で有罪となったがチュニジアに身柄が引き渡されるかどうかは分かりません。」「イスラームの教えでは男女は平等、しかし男には男の役割、女には女の役割があり、違いがあるということを説いています。」「チュニジアでは、1956年の独立以来女性の権利が認められ、アラブ世界で最も女性の地位が高い国と言われています。」「チュニジア国民は親日派が多いと思います。日本製の四輪駆動車やピックアップトラック、電化製品などはよく目にします。また、サッカーが国技で特に2002年サッカー・ワールド・カップ(W杯)日韓共催大会一次リーグでチュニジア代表と日本代表が対戦したこともあり、日本代表として活躍したサッカー選手の名前はよく知られています。」「いわゆる宗教間・宗派間の争いということは、少なくとも自分や親族・知人にはありません。」など、参加者から出された質問に丁寧に答えられました。

参考にした文献
『ESCAPE TO TUNISIA  Brilliant Impressions』(チュニジア政府観光局刊)
『相互理解を目ざして イスラーム 世界宗教の教えとその文明』(イスラーム文化センター刊)
『ウィキペディア チュニジア』
『ウィキペディア チュニジアの歴史』
『ウィキペディア カルタゴ』
『ウィキペディア ジャスミン革命』
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by naraala | 2014-02-09 11:35 | 講演会

内村さんからの便り

万歳! 勝ちました。
沖縄は屈しない



内村千尋さんからの便り


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ナラーラのみなさま

 先日は、「沖縄 平和の旅」ツアー、不屈館でお会いできて本当にうれしかったです。
 不屈館企画の初コースでした。報告集を読み、いい旅ができたようで私も喜んでいます。

 万歳! 勝ちました。沖縄は屈しない

 今日は、うれしい報告ができること、言葉にならないほどの感激のなかで書いています。
 
 年末に仲井真知事が沖縄への振興策と引き換えに、辺野古埋め立てを承認するという、信じられないような言葉で、公約を裏切りました。会見内容も支離滅裂で、矛盾を記者から指摘されるとおこりだすなど、恥ずかしいものでした。

 ネットでは「沖縄はやっぱり金で転ぶ……」などの書き込みがあふれ、みんなつらい思いをしていたので、今回の名護市長選は、県民の誇りを取り戻してくれたと、県民挙げて喜びにあふれています。

 今日の地元新聞は、稲嶺市長がいつものように、朝7時半から8時まで、子供たちの通学路で交通安全見守りの写真が掲載され、感動しました。選挙中も変わらず、すっと続けている日課です。「すべては子どもたちの未来のために」の公約を身を以って実践している人柄が大きな評価を受けたのだと思います。

 闘いはこれからが正念場。早速国は、埋め立ての入札公告をきょうにも出すと、新聞は報じています。これまでの「地元の意思を尊重する」と言い続けていたことは何なのでしょう。報復の意思表示なのでしょうか。

 全国で稲嶺市長を支えていきましょう。瀬長那覇市長を支えるために全国から5000通の手紙が届いたように。
           2014年1月21日                
                      不屈館館長 内村千尋

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by naraala | 2014-02-02 19:39 | 沖縄だより