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中東問題研究家 尾崎芙紀さんの講演(その1)

激動する中東情勢を考える
──「アラブの春」の現状と展望(その1)

2013年3月17日ナラーラ総会での
中東問題研究家の尾崎芙紀さんの講演概要


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はじめに

 2010年末チュニジアに始まり、エジプトからその他のアラブ諸国に広がっていった市民の民主的変革を求める運動、いわゆる「アラブの春」の到達点と、それをどう見るかということについて、みなさんと一緒に考えてみたい。

 1979年に「イラン革命」が起こり、中東に大きな変化が生まれたが、2012年に始まった動きも、それとつながる大きな構造的変化ということができる。それは、いまなお進行しつつあり、まさに変化の途上にある。

 2012年秋ぐらいまで民主化を求める運動は、チュニジア、エジプトでは自力で、リビアではNATOの援護で、といった違いはあるが、次々と強権政治を打倒して、前進をかちとっているかに見えた。しかし、シリアは悲惨な内戦に陥り、2000万国民のうち、7万人が犠牲に、200数十万人が国内外の難民になるという事態に直面している。公正な選挙がおこなわれたはずのエジプトでは、ムスリム同胞団を母体とする新政権が、旧態依然とした強権体質をみせている。

 現地では「命がけでデモに出ている人たちに『春』はそぐわない。『革命』とか『蜂起』だ」と主張する人々もいれば、「自分たちは『革命』をやっているのではない。体制内の改革だ」という人たちもいる。「アラブの春」は新しい段階に入っている。試行錯誤しながらも、そして時間はかかっても、市民の声と権利が尊重される社会を求める運動だ。「革命はまだ始まったばかり。国民のために働かない政府は私たちの力で変えればいいのだ」。カイロやチュニスの街頭で聞く若者や市民の声は、そのことを示している。
 
 *西側のマスコミは、チュニジアのたたかいを「ジャスミン革命」と呼んでいるが、現地では「民衆革命」、あ    るいは焼身自殺した青年の名をとって「ブアジジ革命」と呼んでいる。エジプトでは市民が決起した日に    因んで「1月25日革命」と呼んでいる。

言葉の説明

  はじめに、中東地域とはどこか、アラブ人とはどういう人たちかについて説明しておきたい。

「中東」とは

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「アラブ連盟加盟国と中東地域」の地図にあるように、中東とは、東はアフガニスタン、イランから、西はモロッコの大西洋岸にいたる広大で多様な地域を指している。北はトルコ、南はアラビア半島、スーダンまで。もともと、「中東」という呼称は、「近東」「極東」と並んで、ヨーロッパから東方を見た場合の距離感にもとづく呼び名だったが、第二次世界大戦後、国連による世界の地域分類として一般化0した。北アフリカを除外した地域を中東と呼ぶ場合もある。

「アラブ人」とは

  「アラブ人」とは、身体的特徴をしめす人種ではない。言語や習慣、歴史など共通の文化的社会的特徴を持つ集団・民族を示す概念。もとは、アラビア半島に住んでいたアラブ人たちが、7世紀に興ったイスラム教とともに広がり、混血していったもの。20世紀になって民族主義の高まりのなかで、血統や宗教の違いを超えて「アラビア語を話し、文化的特徴を共有するもの」という定義が確立していった。アラブ人はイスラム教徒が大多数だが、キリスト教徒も1割ほど(レバノンでは3、4割がキリスト教徒)。故アラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長はイスラム教徒だったが、夫人はキリスト教徒。なお、アラブの独立国家から成る地域共同体・アラブ連盟は、「共通の言語と文化」を絆に1945年に結成された。現加盟国は22カ国(パレスチナを含む)。

 イスラム化しながらも、アラビア語を母語としなかったのは――つまり、アラブ人にならなかったのは、中東ではイラン、トルコ、アフガニスタン。さらに1948年に建国されたイスラエルがある。

「パレスチナ人」/「ユダヤ人」とは


  「パレスチナ人」とは、パレスチナに住む、あるいはイスラエル建国以来パレスチナを追われたアラブ人とその子孫を指す。つまり、パレスチナ人とは人種とか宗教には関わりなく土地への帰属を表す概念。「ユダヤ人」も人種ではない。イスラエルでユダヤ人とは「ユダヤ人を母とするもの、またはユダヤ教に改宗したもの」となっている(1970年「帰還法」)。

【参考文献】
  ①松本重治監修/板垣雄三編『中東ハンドブック』(講談社、1992年)
  ②小杉泰『現代イスラーム世界論』(名古屋大学出版会、2006年)
  ③『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2001年)/『新イスラム事典』(平凡社、2002年)

 2、3年前までは、「中東は面白くないね」と言われた。ラテン・アメリカなどで変化が起こっても何の変化もないから、と。また、中東地域は「世界の火薬庫」と呼ばれるほど、紛争の絶え間ない地域だった。第2次世界大戦後、イスラエルがからむ4次の中東戦争、それに80年代のイラク・イラン戦争、90年代のイラクのクウェート侵略と湾岸戦争、2000年代に入ってのアメリカのアフガニスタンとイラク侵略など10回以上の大がかりな戦争が起こった。中東紛争・戦争には直接間接にアメリカがからみ、日本も目下の同盟国として、アフガニスタンやイラクなど中東を舞台に、なし崩し的に自衛隊の海外派兵を行っている。その中東地域で市民による民主化運動「アラブの春」が起こっている。

三つの柱で

 以下、[Ⅰ]中東の民主化運動が起こった背景、[Ⅱ]各国の現状をどう見るか、[Ⅲ]中東の国際関係の構造的な変化──この三つの柱に沿って、ご一緒に考えてみたい。

[Ⅰ]中東の民主化運動が起こった背景

ブアジジ革命=「パンの前に尊厳を」

 2010年の暮れ、チュニジア中部の町で始まった「パンの前に尊厳を」というたたかいは、「仕事、自由、尊厳、社会的公正」のスローガンとなって、またたく間にエジプトや他のアラブ諸国、さらに世界各地に広がった。
 青年の焼身自殺の原因から問題の一端が見えてくる。大卒、26歳、失業中のブアジジ青年は、野菜の路上販売で生計をたてていたが、警官に無許可販売を咎められ、商品を没収され、賄賂まで要求された。チュニジアはアラブ諸国の中でも最も教育水準が高いが、若者の失業率は当時3割以上に達していた。
 
 IMFや世界銀行は同国を「奇跡の経済成長」と高く評価していたが、国民生活の実態は、長期の強権的な政権のもとで経済の自由化が進められ、貧困と格差は拡大の一途をたどっていた。また、対外的な印象とは異なり、言論・報道の自由度も際立って低く、「国境なき記者団」によると全世界178カ国中164位、リビアやサウジアラビアよりも低い位置にあった。

 こうしたなかでベンアリ大統領一族による利権支配や蓄財がはびこり、庶民の怒りはその腐敗行為にも向けられていた。アブジジ青年の事件はネットを通じて、またたく間に全土に広がり、抗議ストへと拡大した。

 このたたかいが起きたとき、駐日チュニジア大使が「国民に連帯して大使を辞任する」と言って帰国した。大使のお父さんは、フランス植民地からの独立運動の闘士だった。たたかいのなかで捕まって銃殺されたが、その意思を受け継いでのことだと聞いた。

(1)社会・経済的背景(公正な政治・経済を求めて

①アラブ世界の病巣

 こうした直接の原因だけでなく、背景にはアラブ世界の長年の社会・経済的な病巣がある。アラブ諸国の学者たちが、国連の後援で2002年から2009年まで5回にわたって「アラブ人間開発報告」という報告書を作成しているが、そこでは「自由、女性の能力開発、知識」の面で、アラブ地域には大きな立ち遅れがあることを自己批判している。たとえば、6割を占める若年人口(30歳以下)とその高失業率、4割のアラブ人が文字を読めない、そのうち3分の2が女性であることなどだ。

 この報告書にととびついたのが、アメリカのブッシュ大統領だ。2003年のイラク侵略の口実とした大量破壊兵器の存在やフセイン政権とアルカイダとの関係がなかったことが明らかになったとき、この報告書を恣意的に利用して、「この3要素の欠如がテロの温床となっている」と決めつけ、イラク攻撃を合理化、外からの「改革」を押し付けようとした。しかし、アラブ諸国の学者たちはこれを拒否し、「自分たちは内部改革を目指し、自己批判のプロセスを開始したのだ」「アラブ世界の真の再生をすすめる内発的な改革のために真剣に努力を払う」と外部からの介入に反発した。この思いは「アラブの春」の動きに結実している。

②これまでのたたかいが基礎

 もう一つ大事な点として見ておかなければならないのは、こうした変化の基礎には、これまでの人民や労働者のたたかいがあるということだ。近年の運動をみてみたい。

 エジプトで、無党派の人々とともに政変の中心となった勢力は、数年来、労働運動を支え、パレスチナ人に連帯し、イラク戦争に反対する運動を続けてきた人たちだ。たとえば、北部の大繊維工場で労働争議支援を掲げてつくられた「4月6日運動」(2008年)、アレキサンドリアの警官たちの横暴を糾弾したソーシャル・メディア「われらはみな、ハーリド・サイード」(2010年)、2000年のパレスチナ人たちのインティファーダ(蜂起)と連帯し、イラク戦争に反対する運動を母体として結成された「キファーヤ(もうたくさん)」などをあげることができる。

 チュニジアの労働運動の歴史は、この地域ではいちばん古い。1956年にフランスから独立を勝ち取る前から、チュニジア労働総同盟は、経済・社会・教育の要求を提起し、ヨーロッパの国際自由労連にも働きかけ、独立運動に対するフランスの弾圧を知らせた。近代的憲法を持ったのも1861年と、この地域ではいちばん早い。次々と弾圧でつぶされてきたが、労働者の蜂起は続いていた。

 80年代末、パレスチナ占領地に広がったパレスチナ人の非暴力の抵抗運動は、1979年のイラン革命と並んで、現下の中東民主化運動の先駆けと呼ばれている。1987年、イスラエルの占領に反対するパレスチナ人のたたかい、第一次インティファーダ(蜂起)が起こった。武装したイスラエル軍に対するストやデモ、投石などによる抵抗運動は、ガザから占領地全体に広がっていった。パレスチナ人たちは、幅広い民族統一指導部を結成し、地場産業の育成にも取り組んだ。
 
 いま、パレスチナ人たちは逆に、アラブ諸国の民衆の運動から刺激を受け、分裂した指導部の統一や、物価高や失業に抗議する運動を進めている。

 このように歴史を見ると、長い間のたたかいが、今日の運動の基礎になっていることがわかる。

(2)歴史的背景

 アラブ人がたたかいに立ち上がった背景には、新自由主義経済による生活破壊もあれば、長期にわたるアラブ社会の病巣もある。しかし、その背後には19世紀から20世紀にいたる西側諸国の植民地支配の歴史がある。

 エジプトやチュニジアなど北アフリカ諸国は19世紀半ばから、シリアやメソポタミア、パレスチナは第1次世界大戦(1914~1918)後、西側諸国の植民地支配の下に置かれた。第1次世界大戦は西側列強による世界再分割の戦争だが、中東については、アラブ地域を含むオスマン帝国の領土の争奪戦だった。特に、イギリスの政策は「三枚舌外交」とも呼ばれ、植民地大国の身勝手さを典型的に示している。

 イギリスはフランスと、シリア、パレスチナ、メソポタミアという重要な地域を分割する密約を結んでおきながら(1916「サイクス・ピコ条約」)、アラブ側に対し、オスマン帝国に反乱を起こせば、アラブ側が要求するほぼ全域で独立を承認すると約束(1915-1916「フセイン・マクマホン書簡」)。一方で、欧米のユダヤ資本の協力を得るため、パレスチナへのユダヤ人の「民族郷土」建設を支援すると約束(1917「バルフォア宣言」)した。
 戦争に勝利した英仏は1920年から、国際連盟に代わってアラブ地域の委任統治を始める。イギリスはイラク、ヨルダン、パレスチナの、フランスはレバノン、シリアの委任統治を始める。イギリスは、アラブ側との約束を反故にし、大量のユダヤ人移民をパレスチナに受け入れた。30年代のナチスによるユダヤ人迫害はこれに拍車をかけ、ユダヤ人口は委任統治の25年間に、約8万人から60万人に、パレスチナ人口の11%から31%にまで激増。混乱を収拾できなくなったイギリスは1947年、創立間もない国連にこの問題を預ける。

 国連は同年、パレスチナ分割決議を採択、パレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ・アラブ人国家に分割し、三宗教の聖地エルサレムは国際管理のもとに置くと決めた。この決議は、当時全人口の三分の一、土地所有の7%しかないユダヤ人にパレスチナの57%の土地を与えるものだった。翌年イスラエルが一方的に独立を宣言し、これを認めないアラブ諸国がイスラエルに攻め込んで第一次中東戦争が始まる。

 アラブ人にとって未解決のパレスチナ問題が、西側の植民地主義に対する民族解放運動という大義であり続けている背景には、こういう経過がある。

 第二次世界大戦後の40年代から50年代にかけて、アラブ世界で反植民地、民族主義の運動が起こる。シリア、レバノン、ヨルダンが独立、エジプト、チュニジア、イラクでは、王制が倒されて共和制が実現した。60年代から70年代にかけて、湾岸諸国でも英保護領から独立する動きが起こる。

 中東諸国の独立運動を抑えきれなくなったイギリスは1971年、スエズ以東の湾岸地域から撤退し、アメリカがこれに代わって中東地域への関与を強め、西側の権益を守る外交軍事戦略を進めるようになる。その後のアメリカの中東・湾岸政策は、ご都合主義の最たるもの。

 イラン革命以前アメリカは、湾岸の憲兵にイランのパーレビ国王を任じ、その強化に奔走した。1979年、民衆の革命でパーレビ政権が倒れると、今度はイランの封じ込めに奔走する。次いでイラクのフセイン政権が、湾岸諸国を革命イランから守ると言ってイランに攻め入ると、西側の先頭にたってイラクを支援する。

 その結果、強大になったフセイン政権がクウェートに侵攻すると、今度は一転、多国籍軍を結成し、イラクを攻撃、湾岸戦争となった。そしていま、私たちはアメリカが虚構の口実で始めたイラク侵略の残骸を見ている。

(その2へつづく)
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by naraala | 2013-05-10 11:47 | 講演会

中東問題研究家 尾崎芙紀さんの講演(その2)

激動する中東情勢を考える
──「アラブの春」の現状と展望(その2)

[Ⅱ]各国の現状をどう見るか

(1)各国の到達点

 この2年間、10近いアラブ諸国で議会選挙がおこなわれた。内実を伴わない場合も多いが、政府が市民の声を無視できない状況が生まれている。

 アラビア湾(ペルシャ湾)岸諸国やヨルダン、モロッコなどの王政諸国でも、生活苦を訴え、政治改革や議会の権限強化を求め、王族や閣僚の汚職を批判するデモが行われている。ヨルダンでは王政を批判する声まであがった。3月にはクウェートで野党グループが、抗議行動を活性化させるために、イスラム主義者や労働者、学生を含む広範な野党連合を結成、民主的な複数政党制を要求した。これまで見られなかった動きである。

 エジプトでは、2012年6月の大統領選挙で、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党のモルシ氏が勝利した。モルシ大統領は「私はすべてのエジプト人の代表になる」と宣言したが、国論を二分する暴挙に出た。一つは、大統領権限を大幅に強化する大統領令の発布、いま一つは十分な議論もなく早急な憲法国民投票を行ったことである。これに対して「新たなファラオと化した」などと新政権の独裁化を懸念する声があがり、ムバラク大統領を退陣に追い込んだカイロのタハリール(解放)広場をはじめ、全土で数十万におよぶ人々が街路に繰り出した。憲法国民投票は強行されたが、抗議の声のまえに大統領の権限強化宣言は撤回された。

 チュニジアでは、2011年10月の制憲議会選挙で上位3党、イスラム主義政党と世俗政党による連立政権が発足した。憲法制定のプロセスでは「国家と宗教の関係」「女性の地位」「報道の自由」など、チュニジアの議論は他のアラブ諸国に先んじている。「女性は男性の補完的な存在」という文言は女性団体などが強く反発して取り下げられた。
 
 政治の混乱と経済の悪化に国民の不満は高まり、政府は労組と労働条件などを定める社会協定を締結した。2013年2月、野党幹部の暗殺事件が発生、大規模な抗議デモが起こった。その混乱のなか、内相、外相など半数のポストを無所属が占める新内閣が成立している。

 イラクでは米軍の「完全撤退」1周年を迎えたが、爆弾テロや銃撃が荒れ狂っている。原油の増産をテコに経済は一見活況を呈し、外資の参入ラッシュは続いているが、政治には腐敗がはびこり、アメリカの置き土産というべき宗派対立は激化している。失業率は25%と高止まり。宗派主義的、独裁的手法を強めるマリキ首相に対して、昨年末には退陣を求める過去最大数十万人のデモが中部ファルージャやラマディ、北部のクルド地域で起きた。ラマディのデモでは、イラク版「アラブの春」を呼びかける声も聞こえた。

 外部勢力の介入で政権が倒れたイラクと、試行錯誤しながらも民主的な国づくりに前進している国々を取材した、小泉大介「赤旗」カイロ特派員の思いを紹介する(雑誌『月刊学習』2012年2月号)。

 「外国軍の武力による政治体制転覆の誤りを考えずにはいられない。チュニジア、エジプトと、人民自らの力で独裁政権を倒し、試行錯誤を繰り返しながらも新たな国づくりに乗り出している。(…)エジプトの人民議会選挙で投票した多くの人たちが「いま私は、エジプト人であることを誇りに思う」と語った。それを聞くたびに、イラクの人々のことを思わずにはいられなかった」

(2)運動の到達点をどう見るか

 試行錯誤しながらも、運動は新しい段階に進んでいる。現地の活動家や研究者の議論からいくつか紹介したい。
 
 今年3月に外務省などが主催した国際シンポジウムに参加した学者たちの発言では「国民は自分たちが物事を変えることができることを知った」「各国ごとに到達点は異なるが、政府が国民世論を無視できなくなった」「対外政策、とくにパレスチナ問題で国民は発言する権利をもつようになった」「エジプトは完全には変わっていない。しかし時間はかかるが、政治組織も選出された議会もある。対立があるのは当たり前。前進は止まらない」などが印象的だった。

 ベイルート・アメリカン大学のラミ・ホーリ公共政策・国際問題研究所所長は、「デモが起こらなかった国々を含め、アラブ各地で憲法修正を求める運動が起こっている。強権的な支配者を倒すより重要なことだ。法の支配が貫徹する社会を市民が望んでいることが示されているからだ」と、レバノンの「デイリー・スター」紙に書いている。

 レバノン内戦時に、幅広い統一戦線組織「レバノン国民運動」で活動した元レバノン大学教授のマスード・ダーヘル氏は、昨年12月来日したとき、「短期に失敗か成功かの問題ではない。運動を続ければ変化は起きる。たくさん問題があるというが、それがあるからこそ前進する」「これは宗派主義を克服し、民主主義と市民の権利を求める運動だ」と述べている。

 エジプトの野党統一戦線の共同創設者のサバヒ氏は、「革命はまだ途上にある」と述べている。タハリール広場に集まった若者たちも、「革命は続いているぞ!」「暮らしも政治もよくなっていない。あきらめずに運動をつづけなければ。それに加われるのが私の誇り」と訴えている(2012年11月25日付「しんぶん赤旗」)
 今年1月東京で開かれた国際ワークショップで、パレスチナ人研究者倭リード・サーレム氏は「民主主義への道は複雑で時間がかかる。フランス革命だってそうだった。1789年の革命から女性の参政権が認められる1944年まで155年かかった」と述べている。

 これらの発言を聞いて感じることは、「複雑な現実をしっかり認識することの大切さ」とともに、「運動を続ければ、時間はかかっても、民主主義と市民の権利を求める運動は前進する」ということだ。さらにその認識にたって、事態を見ていくことの大切さである。

[Ⅲ]中東の国際関係における構造的変化

(1)パレスチナ問題に見るアメリカの影響力の低下

 「アラブの春」がパレスチナ問題に及ぼした影響を見てみよう。

 《エジプトや近隣諸国の変化》 昨年11月中旬、イスラエル軍の一方的な空爆で始まったガザ危機は、各国の働きかけがじつって1週間で停戦に至ったが、アラブ諸国の指導者らの活発な外交活動に比べて、アメリカの影は薄かった。近隣諸国の指導者らは「われわれは傍観していた昨日までと違う」と述べた。アフガン、イラク戦争の失敗、経済的地位の低下など、米国はもはやかつての超大国ではない。

 併せて、30年以上にわたってイスラエルに次ぐアメリカの中東戦略の柱だったエジプトのムバラク政権が崩壊し、1979年以来の米戦略の構造に大きな変化が起こっている。1979年とは、エジプトがイスラエルとの単独和平を結んだ年、そしてペルシャ湾におけるアメリカの代理人イランのパーレビ国王が広範な国民の運動で倒された年だ。以来、エジプトはイランに代わって、アメリカの中東戦略のお先棒を担いできた。政変後のエジプト新外相が「イスラエルと協力してガザを閉じ込めてきたのは恥辱」という発言をした。

 《問題解決の場は国連に》 米国の影響力が低下するなか、パレスチナ問題は国連の枠組みでの解決に向けて動きつつある。米国とイスラエルはこれまでかたくなに国連主導の国際会議に反対しきた。1993年のオスロ合意以降、「中東和平交渉」はアメリカを唯一の仲介者として進められてきたが、イスラエルは交渉しながら、占領地に国際法違反の入植地を次々に建設、オスロ合意の8年間で157カ所から200カ所に、入植者数を27.5万人から400000人にまで増やした。国連の最新の報告書(本年1月)によるとその数は今や250カ所、入植者数は520000人に上っている。

 こうしたなか、パレスチナ人たちは2011年9月、アメリカの圧力にもかかわらず、国家としての正式加盟を国連に申請した。アメリカの妨害によって国家としての国連加盟はできなかったが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟は、同総会で賛成107体反対14の圧倒的多数で承認された。翌2012年11月、パレスチナ人たちは再び国連に対し、現在の「投票権なしのオブザーバー組織」から「投票権なしのオブザーバー国家」への格上げを求める決議案を提出、国連総会は賛成138(日本を含む)、反対9の圧倒的賛成多数で決議を採択した。注目されるのが欧州諸国の態度の変化だ。

 2011年、パレスチナがユネスコへの加盟を申請したとき、反対票あるいは棄権票を投じた欧州諸国のなかで、今回賛成あるいは棄権に態度を変えたのはイタリア、デンマーク、スイス、オランダ、スウェーデンなど9カ国だ。

(2)米の「アジア重視戦略」のなかの中東

 2011年末、イラク居残り工作も功を奏さず、アメリカはイラクから「全面撤退」、さらにアフガン戦争の「収束」も視野に、アジア重視に軸足を移すという方針を発表した。しかし、オバマ政権のこの「アジア重視」は、中東から太平洋地域への軍事力の単純な移転ではないことが、その後の動きでわかる。

 クリントン米国務長官は最初の訪問をアジア諸国から始めた。しかし、ケリー新国務長官は、ヨーロッパと中東の歴訪から始めている。また、アラビア湾岸地域への米軍の派遣は途切れなく続いている。アメリカの2011年の武器売却総額は、過去最高の5兆2400億円で、全世界の契約総額の78%を占めている。そのうち、イランの脅威を口実に、湾岸諸国は上位を占め、なかでもサウジアラビアは、米国の売却総額のほぼ半分を占めている。

 アメリカは、中東のエネルギー資源を守るために軍の駐留を維持してきたが、アメリカの大手石油会社の幹部は、将来中東石油への依存度が減ったとしても、中東の石油資源が世界経済の安定のカギを握っている事実は変わらないと述べている。

 湾岸諸国のどの国も自衛能力をもっておらず、自国の安全保障を完全にアメリカに依存してきた。米政権は、湾岸諸国の安全を守ると明言しており、必然的に同地域での市民弾圧を容認することになっている。その湾岸諸国でも、いま自由と政治参加を求める市民の声は日増しに強くなっており、各国政府は、早晩その現実に向き合わなければならなくなるだろう。
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by naraala | 2013-05-09 11:49 | 講演会