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岡真理さん講演 報告

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繰り返されるジェノサイド 封鎖・占領・植民地主義
~完全封鎖下のガザを訪ねて~
ナラーラの主催で京都大学の岡真理さんが講演


ナラーラは、現代アラブ文学とパレスチナ問題がご専門の岡真理さん(京都大学)を講師としてお招きし、標題名の講演会を開催しました。開催日時は9月6日(土)午後2時から4時30分まで。会場は奈良県文化会館AB会議室。今次のイスラエルによるガザ攻撃に対する関心の高さを反映して、100人の方が参加されました。
講師は、学生の時からパレスチナ問題を現代世界に生きる人間の思想的課題として考え続けてこられ、しかもご自身が現地に入りご自分の眼で現実を見てこられ、現地発の確かな情報に基づいてイスラエルのガザ攻撃の不当さとパレスチナ問題の本質を訴え続けてこられました。それだけにお話は、広がりと深さにおいて、2時間という時間では語りつくせないものだということが感じ取られました。

イスラエルはガザに対する攻撃を、この6年間に3回行っています。
今次(2014年)の攻撃は、現地時間で7月7日から8月26日まで51日間に及びました。イスラエルによる今次攻撃の目的は、4月のハマース(ガザ)とファタハ(西岸)の和解により6月に発足したパレスチナ暫定統一政府の切り崩しにあります。その被害規模は、パレスチナ側の死者2168人(うち民間人1662人80%)負傷者10895人に対して、イスラエル側の死者は66人(民間人8人)です。
現地時間8月26日午後7時(日本時間8月27日午前1時)にエジプト政府の仲介によりイスラエル軍とハマースの間で長期的な停戦合意が発効しました。私たちはこのことを単純に喜んでいいのでしょうか。講師は、「『停戦になってよかったね』ということばに傷ついた。」というガザの友人のことばを紹介されました。
講師は、6年で3回にわたるイスラエルのガザに対する攻撃について、過去2回の攻撃はジェノサイド「的」攻撃であったが、今次攻撃は、世界が注視する中で公然と行われた大量殺戮・大量破壊、ジェノサイドそのものだと指摘します。今回の停戦合意でも、長期的停戦を保障するものは何もなく、ましてハマースが求めていたガザ封鎖の全面解除など核心の問題については、未解決のままです。ガザの人々は、イスラエルによる次の新たなジェノサイドがいつ始まるかと不安におびえています。
講師によれば、停戦後も無人偵察機がガザの上空を飛び回っており、この無人偵察機にはソニー製のレンズが使われているそうです。180万のガザの住民は、イスラエルによる完全封鎖の下、外との人と物の行き来が絶たれ、そこから逃れることのできない「袋の鼠」状態に置かれています。一方、イスラエルでは、ユダヤ系市民の95%が戦争を支持し、官民によるレイシズム、アラブ人に対するヘイト扇動が行われています。

ここで、講師は、「イスラエルとは何か」(イスラエルという国の成り立ち)という問題に話しを進められました。
今回ガザで起きていることは、1948年にまで遡ります。アメリカの支援の下、この年の5月14日(ユダヤ暦)にイスラエルが建国されます。この時、多くのパレスチナ人が虐殺され、およそ80万人から100万人のパレスチナ人難民が発生しました。この日のことを、パレスチナ人は「ナクバ」(アラビア語で「大破局」「大災厄」)と言います。イスラエルは、1897年第1回世界シオニスト会議以来の「シオン(ユダヤ教の神殿のあるエルサレム郊外の丘)に還れ」をスローガンとし、選民意識を土台としたユダヤ人の偏狭かつ排他的な民族主義の思想に基づくシオニスト国家であり、パレスチナ人に対するレイシズム(民族浄化)により建設された入植型植民地国家です。イスラエルは、貧しい人ではなく金持ちと健康な人の国です。建国後、今日まで一貫して続くパレスチナ人の民族浄化は、「漸進的ジェノサイド」とよばれます。
講師は、イスラエル・パレスチナ問題は、歴史的文脈の中で捉えないと本質はわからないと強調されました。――この問題は、決してユダヤ教とイスラム教、ユダヤ人とアラブ人の対立ではない。イスラエルを「ユダヤ人国家」と言ってはいけない。なぜなら、ユダヤ人の中にはユダヤ教徒でない人、シオニストでない人がたくさんいるから。この問題は、ヨーロッパキリスト教社会の中に根っ子があり、第1次世界大戦後のヨーロッパの植民地主義的世界分割が中東にいくつもの国を生み出した結果である、と。
一方、マスメディアなどが「イスラム原理主義組織」「テロリスト」などと形容するハマースについても、講師は正しい理解を持つことを主張されました。――イスラエルによるパレスチナ人の土地の占領が先にあり、それに対して国際法で認められた抵抗権の行使としての武装抵抗を行っているのがハマースである。ハマースのすべてを認めるわけではないが、国際法が認めるものか、禁ずるものかを見分ける必要がある。例えば、今回のエジプトによる停戦提案に対して、ハマースは、「イスラエルが自分たちの要求(封鎖の解除)を呑むなら、10年間停戦する」という対案を出していた、と。
他方、イスラエルの異常さ、不法さについて講師は次のような事実を指摘されました。
イスラエル国内では、「アラブ人を殺せ!」(イスラエル国民の20%がアラブ人)、「左翼を殺せ!」(イスラエル国民の5%が左翼)ということが声高に叫ばれ、イスラエルの与党も野党も、ガザに対するジェノサイドを公然と唱え、パレスチナ人に対するレイシズム、ヘイト扇動が行われ、反対の声を公然とあげることができないという状況がある。
また、歴史的にみて、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別が問題であるのに、1947年の国連総会では、ユダヤ人を自国から追い出したいキリスト教徒が主なアメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするというパレスチナ分割決議が可決されました。しかし、イスラエルは国連分割案の1.5倍の面積を占領した。

続いて、講師は、イスラエルによるガザの封鎖について、これは「殺戮なきジェノサイド」あるいは「生きながらの死」であると、ズバリその本質を指摘されました。
世界人権宣言(1948年)は、第13条2項で、「すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。」と謳っています。しかし、ガザの住人にはそのような自由はありません。子供たちは、封鎖されているガザしか知りません。ライフラインはイスラエルが完全支配し、飢え死にしない程度に生かさせておくという政策がとられています。これは、「緩慢な死刑」「狡猾なジェノサイド」です。封鎖解除なき停戦を受け入れろというのは、「生きながら死ね」というのに等しいことです。
この問題について講師はこう強調されました。――《ガザ》は意図的かつ政治的につくり出されたものであり、《ガザ》を「人道問題」に還元してはならない。《ガザ》とは、あくまでも「人権問題」であり、「政治的問題」である、と。

そして最後に、日本の私たちがなすべきこととして、次のように訴えられました。
― 現実を変えること(Make Difference)。
― トランスナショナルな草の根の市民の力で「不処罰」の「伝統」に終止符を打つこと。
― イスラエルに対するBDS=ボイコット(Boycott)、投資引き上げ(De-investment)、制裁(Sanction)を実施すること。
― 集団的自衛権、武器輸出の解除、沖縄米軍基地に反対すること。
― 自分たちの代表としてこれらの問題を解決する政府をつくっていくこと。

 イスラエル・パレスチナ問題についての深く広い知識と現地からの豊富な情報に基づく講師のお話のすべてを紹介することはできませんが、私なりに消化できた範囲でその要点をお伝えします。間違いがあれば、それは報告者の責任です。

なお、この問題についてさらに詳しくお知りになりたい方々のために、講師が紹介された本(新書版)と日本語情報サイトは以下のとおりです。

 ・ヤコヴ・M・ラブキン著、菅野賢治訳『イスラエルとは何か』(平凡社新書、2012年)
 ・パレスチナ情報センター http://palestine-heiwa.org/
 ・パレスチナの平和を考える会 http://palestine-forum.org/
 ・ストップ・ソーダストリーム・キャンペーン http://d.hatena.ne.jp/stop-sodastream/

(報告者:岩本速雄)

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by naraala | 2014-09-18 23:15 | 講演会

今のチュニジア

満席、盛会の2014ナラーラ新年会
チュニジア共和国出身の
ジュイニ・ムニールさんが講演
 

 ナラーラの2014年の新年会が、南京終町のさくら診療所3階でひらかれ、用意した椅子席が足りなくなるほどの参加者で、盛会のうちに終わりました。

 最初に宮城恭子理事長があいさつに立ち、「安倍首相は財界・大企業をひきつれて、原発をはじめ製品の売り込みの中東やアフリカ、アジア各国をまわっているが、果たして、それが世界の友好や平和につながるのだろうか疑問に感じている。ナラーラとしは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの諸国人民のことを大いに知り、学びながら、友情、連帯とは何かを考える活動に取り組んでいきたい」と述べ、「その第一弾が、チュニジアのことを知る『新年会』で、最後までのご参加、ご協力を」と呼びかけました。

ムニールさんのお話

 ジュイニ・ムニールさん(34歳)は、チュニジア共和国出身で現在京都在住です。母国語であるアラビア語のほか、フランス語、英語、イタリア語に堪能で、日本語は現在特訓中だそうです。日本では合気道練習生の経験もあります。
d0117895_11295174.jpg お話はパワーポイントを使い、画像を示しながら英語でスピーチされたものを日本語で、パートナーの坂尾淳子さんが通訳するという形ですすめられました。
 最初は1956年にチュニジアがフランス保護領下から独立した時から歌われている「チュニジア国歌(祖国の防衛者)」が流れ、その軽快なマーチを聞いた後、お話は始まりました。歌中の重要な一節は、日本語では「民衆がいつ日か生を望んだならば、かならずや運命はこたえるであろう、かならずや夜は去り、鎖は砕け散るであろう」と訳されています。

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チュニジアという国

 チュニジアの面積は164,150㎢(日本の約5分の2)、人口は約1,100万人。隣国にリビア、アルジェリア、地中海の対岸北東にイタリアが面しています。公用語はアラビア語ですが、フランス保護領下時代の影響でフランス語も広く普及しています。イスラム教徒が98%、その他2%はユダヤ教徒やキリスト教徒等です。
 チュニジアの北部は、緑豊かで肥沃な穀倉地帯で、アラブにとって羨望の地でもありました。北岸と東岸は地中海に面し、陽光豊かなリゾート地でもあります。観光客もおおく、観光施設も多数あります。南部にはサハラの一部が国土となっており、砂漠やオアシス、渓谷など魅力的なところです。この南部にある先住民族ベルベル人の穴居住居は、映画「スターウォーズ」のセットにもなりました。
 アラビア語で「こんにちは」は「アッサラームアレイコム」、直訳すると「あなた方に平安を」です。返事は「ワアレイコムッサラーム」、同じく「あなた方にも平安を」です。
 紀元前2世紀からリビアとともにローマ帝国のアフリカ属州とされ、そのローマ時代の遺跡がたくさん残っています。「歴史的遺産の宝庫」といわれ長い間埋もれていたので、保存状態が良いと言われています。
 白亜の壁に窓や扉は青い塗料で彩られた鮮やかなコントラストの建物は、国内のいたるところで見られます。この窓や扉の青はチュニジアの青い空・青い海と並んで「チュニジアン・ブルー」と評されることもあります。

チュニジアの歴史と文化

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 伝説によると、紀元前9世紀、中東の海洋貿易民族のフェニキア人によってカルタゴが建国され、地中海貿易で繁栄しました。最初は女王だったといわれています。紀元前3世紀になるとローマ帝国と地中海の覇権を争うようになり、3次にわたるポエニ戦争の末、紀元前146年にカルタゴは滅亡します。以来、紀元439年までは、ローマ支配下のアフリカ属州となりました。
 7世紀には、イスラームのもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王と東ローマ帝国の連合軍を破り、アフリカをイスラーム世界に編入しました。7世紀から16世紀初頭までは、イスラーム王朝の支配下におかれました。そして16世紀にはオスマン帝国領となります。オスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ(=王族)」はオスマン政府から独立した統治を行うようになり、18世紀はチュニス君侯国がチュニジアに成立します。
 1861年に憲法が制定され、イスラーム地域及びアフリカ地域で初の立憲君主国となり、西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採ります。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折しました。
 1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国によって認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、フランスの保護領「フランス領チュニジア」となります。
 20世紀にはいると、チュニジア独立を目的とする結社が創設されて発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動が展開されます。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件で独立を受け入れ、チュニジア王国が成立、独立を達成しました。しかし、翌年には王制が廃止され、大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。王制下の首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採りますが、長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン・アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉しました。

「アラブの春」の先駆け「ジャスミン革命」

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 チュニジアは、イスラーム諸国では比較的穏健な世俗的国家として、中東と西洋のパイプ役を果たしていました。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態でした。政権についたベン・アリーはイスラーム主義組織及び労働者共産党に対し抑圧を行い、ある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占・蓄財といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に国民のなかに不満がたまっていきました。革命後明らかにされた蓄財の実態は、画面で生々しく紹介されました。
 こうした背景のもと、「ジャスミン革命」がおこるわけですが、その直接的、かつ決定的な要因は、2010年12月17日、中部の都市でおこりました。この日の朝、露天商のモハメド・ブアジジ(26歳)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして地方役人が野菜と秤を没収、さらには役所の女性職員から暴行と侮辱を受けました。彼は三回、没収された秤の返還を求め役所に行きましたが、引き換えに賄賂を要求されました。三回とも追い返された彼は、これに抗議するために同日午前11時30分、県庁舎前で自分と商品を積んだカートにガソリンをかけて火をつけ、焼身自殺を図ったのです。その場に駆け付けたモハメドの従兄弟アリ・ブアジジが、事件直後の現場の様子を携帯電話で撮影し、その日の夕方、フェイスブックへ映像を投稿しました。「アルジャジーラ」で事件が取り上げられ、一人の青年の焼身自殺が全国に知れ渡りました。イスラーム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じており、また火葬の習慣もないので、「焼身自殺」が与える衝撃は大きなものがありました。 
 ベン・アリーの退陣要求デモが全土に拡大する中、警察は国民を弾圧する側に回りましたが、軍が離反して国民の側につき、ついにベン・アリーと一族は国外に脱出、モハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命します。この一連の事件が「ジャスミン革命」と呼ばれているのです。
 国民の人生がみじめなのに、一族による利権の独占・蓄財といった腐敗が誰の目にも明らかとなり、国民は、その生活と自由、自らの誇りと尊厳を求めて運動に立ちあがったのです。

現在のチュニジアの政局

 2011年の「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアでは選挙を経て同年末にアンナハダ主導の暫定政府が発足して以降、野党勢力が政治の「イスラーム化」に反発。2013年2月と7月に野党指導者が何者かによって相次ぎ暗殺されてからは対立が決定的となり、反政府デモが断続的に取り組まれてきました。
 その後、10月、労働総同盟(UGTT)の仲介で、与党と野党の「国民対話」が始まり、12月14日には、現産業相で無所属のメフディ・ジョマア氏を新たな暫定政府首相に指名しました。同氏は18日には中立政府の組閣を開始。「透明で信頼に足る選挙の実施」「経済危機の打開」に向けた決意を表明しています。
 憲法にイスラーム法をいれるか、いれないかでの対立が続いているわけですが、「問題は山積していますが、革命は表現の自由など重要な成果も生み出しています。市民として成熟しつつある国民が政治への関与を強めていけば、道は開けるでしょう」。「ブアジジさんのように革命に命をささげた人のためにも、ここであきらめるわけにはいきません。私たちは社会的公正という目標を実現するまで声を上げ続けます」という識者の意見もあり、いまはなお、不安定ですが、再構築が進んでいくでしょう。

すべての人々が幸せな暮らしができるように

 ムニールさんは、約1時間半にわたる話の最後を、イスラームの預言者ムハンマドの「我々(イスラム教徒=ムスリム)はまるで一人の人間のようである。もしも誰かが傷ついたり病に伏せたりしたら、彼らが回復するまで我々は気の休まるところがない。イスラームは誰もが生まれながらに自由であり、誰しも他人の支配下のおかれることはない。」という言葉を引用し、また「地上のすべての人々が幸せなくらしができるように、力を合わせていきたい。平和、よりよい生活、喜び、自由を願います。」と述べて話をしめくくられました。

 この後、ムニールさんが作られた、「タジン(チュニジア風オムレツ)」と「ハーブ入りパン」をいただきました。d0117895_11224261.jpg参加者からも「とてもおいしかった」という言葉もムニールさんに贈られました。
 続いて、「チュニジアの主要な産業は農業と鉱業で、最近は外資が入ってきて加工産業も増えてきている、食料自給率は100%超で小麦やオリーブは主要な輸出農産物です。」「ベン・アリーの蓄財はチュニジアの国の財産になりました。」「ベン・アリーはサウジアラビアが受け入れている、裁判で有罪となったがチュニジアに身柄が引き渡されるかどうかは分かりません。」「イスラームの教えでは男女は平等、しかし男には男の役割、女には女の役割があり、違いがあるということを説いています。」「チュニジアでは、1956年の独立以来女性の権利が認められ、アラブ世界で最も女性の地位が高い国と言われています。」「チュニジア国民は親日派が多いと思います。日本製の四輪駆動車やピックアップトラック、電化製品などはよく目にします。また、サッカーが国技で特に2002年サッカー・ワールド・カップ(W杯)日韓共催大会一次リーグでチュニジア代表と日本代表が対戦したこともあり、日本代表として活躍したサッカー選手の名前はよく知られています。」「いわゆる宗教間・宗派間の争いということは、少なくとも自分や親族・知人にはありません。」など、参加者から出された質問に丁寧に答えられました。

参考にした文献
『ESCAPE TO TUNISIA  Brilliant Impressions』(チュニジア政府観光局刊)
『相互理解を目ざして イスラーム 世界宗教の教えとその文明』(イスラーム文化センター刊)
『ウィキペディア チュニジア』
『ウィキペディア チュニジアの歴史』
『ウィキペディア カルタゴ』
『ウィキペディア ジャスミン革命』
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by naraala | 2014-02-09 11:35 | 講演会

中東問題研究家 尾崎芙紀さんの講演(その1)

激動する中東情勢を考える
──「アラブの春」の現状と展望(その1)

2013年3月17日ナラーラ総会での
中東問題研究家の尾崎芙紀さんの講演概要


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はじめに

 2010年末チュニジアに始まり、エジプトからその他のアラブ諸国に広がっていった市民の民主的変革を求める運動、いわゆる「アラブの春」の到達点と、それをどう見るかということについて、みなさんと一緒に考えてみたい。

 1979年に「イラン革命」が起こり、中東に大きな変化が生まれたが、2012年に始まった動きも、それとつながる大きな構造的変化ということができる。それは、いまなお進行しつつあり、まさに変化の途上にある。

 2012年秋ぐらいまで民主化を求める運動は、チュニジア、エジプトでは自力で、リビアではNATOの援護で、といった違いはあるが、次々と強権政治を打倒して、前進をかちとっているかに見えた。しかし、シリアは悲惨な内戦に陥り、2000万国民のうち、7万人が犠牲に、200数十万人が国内外の難民になるという事態に直面している。公正な選挙がおこなわれたはずのエジプトでは、ムスリム同胞団を母体とする新政権が、旧態依然とした強権体質をみせている。

 現地では「命がけでデモに出ている人たちに『春』はそぐわない。『革命』とか『蜂起』だ」と主張する人々もいれば、「自分たちは『革命』をやっているのではない。体制内の改革だ」という人たちもいる。「アラブの春」は新しい段階に入っている。試行錯誤しながらも、そして時間はかかっても、市民の声と権利が尊重される社会を求める運動だ。「革命はまだ始まったばかり。国民のために働かない政府は私たちの力で変えればいいのだ」。カイロやチュニスの街頭で聞く若者や市民の声は、そのことを示している。
 
 *西側のマスコミは、チュニジアのたたかいを「ジャスミン革命」と呼んでいるが、現地では「民衆革命」、あ    るいは焼身自殺した青年の名をとって「ブアジジ革命」と呼んでいる。エジプトでは市民が決起した日に    因んで「1月25日革命」と呼んでいる。

言葉の説明

  はじめに、中東地域とはどこか、アラブ人とはどういう人たちかについて説明しておきたい。

「中東」とは

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「アラブ連盟加盟国と中東地域」の地図にあるように、中東とは、東はアフガニスタン、イランから、西はモロッコの大西洋岸にいたる広大で多様な地域を指している。北はトルコ、南はアラビア半島、スーダンまで。もともと、「中東」という呼称は、「近東」「極東」と並んで、ヨーロッパから東方を見た場合の距離感にもとづく呼び名だったが、第二次世界大戦後、国連による世界の地域分類として一般化0した。北アフリカを除外した地域を中東と呼ぶ場合もある。

「アラブ人」とは

  「アラブ人」とは、身体的特徴をしめす人種ではない。言語や習慣、歴史など共通の文化的社会的特徴を持つ集団・民族を示す概念。もとは、アラビア半島に住んでいたアラブ人たちが、7世紀に興ったイスラム教とともに広がり、混血していったもの。20世紀になって民族主義の高まりのなかで、血統や宗教の違いを超えて「アラビア語を話し、文化的特徴を共有するもの」という定義が確立していった。アラブ人はイスラム教徒が大多数だが、キリスト教徒も1割ほど(レバノンでは3、4割がキリスト教徒)。故アラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長はイスラム教徒だったが、夫人はキリスト教徒。なお、アラブの独立国家から成る地域共同体・アラブ連盟は、「共通の言語と文化」を絆に1945年に結成された。現加盟国は22カ国(パレスチナを含む)。

 イスラム化しながらも、アラビア語を母語としなかったのは――つまり、アラブ人にならなかったのは、中東ではイラン、トルコ、アフガニスタン。さらに1948年に建国されたイスラエルがある。

「パレスチナ人」/「ユダヤ人」とは


  「パレスチナ人」とは、パレスチナに住む、あるいはイスラエル建国以来パレスチナを追われたアラブ人とその子孫を指す。つまり、パレスチナ人とは人種とか宗教には関わりなく土地への帰属を表す概念。「ユダヤ人」も人種ではない。イスラエルでユダヤ人とは「ユダヤ人を母とするもの、またはユダヤ教に改宗したもの」となっている(1970年「帰還法」)。

【参考文献】
  ①松本重治監修/板垣雄三編『中東ハンドブック』(講談社、1992年)
  ②小杉泰『現代イスラーム世界論』(名古屋大学出版会、2006年)
  ③『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2001年)/『新イスラム事典』(平凡社、2002年)

 2、3年前までは、「中東は面白くないね」と言われた。ラテン・アメリカなどで変化が起こっても何の変化もないから、と。また、中東地域は「世界の火薬庫」と呼ばれるほど、紛争の絶え間ない地域だった。第2次世界大戦後、イスラエルがからむ4次の中東戦争、それに80年代のイラク・イラン戦争、90年代のイラクのクウェート侵略と湾岸戦争、2000年代に入ってのアメリカのアフガニスタンとイラク侵略など10回以上の大がかりな戦争が起こった。中東紛争・戦争には直接間接にアメリカがからみ、日本も目下の同盟国として、アフガニスタンやイラクなど中東を舞台に、なし崩し的に自衛隊の海外派兵を行っている。その中東地域で市民による民主化運動「アラブの春」が起こっている。

三つの柱で

 以下、[Ⅰ]中東の民主化運動が起こった背景、[Ⅱ]各国の現状をどう見るか、[Ⅲ]中東の国際関係の構造的な変化──この三つの柱に沿って、ご一緒に考えてみたい。

[Ⅰ]中東の民主化運動が起こった背景

ブアジジ革命=「パンの前に尊厳を」

 2010年の暮れ、チュニジア中部の町で始まった「パンの前に尊厳を」というたたかいは、「仕事、自由、尊厳、社会的公正」のスローガンとなって、またたく間にエジプトや他のアラブ諸国、さらに世界各地に広がった。
 青年の焼身自殺の原因から問題の一端が見えてくる。大卒、26歳、失業中のブアジジ青年は、野菜の路上販売で生計をたてていたが、警官に無許可販売を咎められ、商品を没収され、賄賂まで要求された。チュニジアはアラブ諸国の中でも最も教育水準が高いが、若者の失業率は当時3割以上に達していた。
 
 IMFや世界銀行は同国を「奇跡の経済成長」と高く評価していたが、国民生活の実態は、長期の強権的な政権のもとで経済の自由化が進められ、貧困と格差は拡大の一途をたどっていた。また、対外的な印象とは異なり、言論・報道の自由度も際立って低く、「国境なき記者団」によると全世界178カ国中164位、リビアやサウジアラビアよりも低い位置にあった。

 こうしたなかでベンアリ大統領一族による利権支配や蓄財がはびこり、庶民の怒りはその腐敗行為にも向けられていた。アブジジ青年の事件はネットを通じて、またたく間に全土に広がり、抗議ストへと拡大した。

 このたたかいが起きたとき、駐日チュニジア大使が「国民に連帯して大使を辞任する」と言って帰国した。大使のお父さんは、フランス植民地からの独立運動の闘士だった。たたかいのなかで捕まって銃殺されたが、その意思を受け継いでのことだと聞いた。

(1)社会・経済的背景(公正な政治・経済を求めて

①アラブ世界の病巣

 こうした直接の原因だけでなく、背景にはアラブ世界の長年の社会・経済的な病巣がある。アラブ諸国の学者たちが、国連の後援で2002年から2009年まで5回にわたって「アラブ人間開発報告」という報告書を作成しているが、そこでは「自由、女性の能力開発、知識」の面で、アラブ地域には大きな立ち遅れがあることを自己批判している。たとえば、6割を占める若年人口(30歳以下)とその高失業率、4割のアラブ人が文字を読めない、そのうち3分の2が女性であることなどだ。

 この報告書にととびついたのが、アメリカのブッシュ大統領だ。2003年のイラク侵略の口実とした大量破壊兵器の存在やフセイン政権とアルカイダとの関係がなかったことが明らかになったとき、この報告書を恣意的に利用して、「この3要素の欠如がテロの温床となっている」と決めつけ、イラク攻撃を合理化、外からの「改革」を押し付けようとした。しかし、アラブ諸国の学者たちはこれを拒否し、「自分たちは内部改革を目指し、自己批判のプロセスを開始したのだ」「アラブ世界の真の再生をすすめる内発的な改革のために真剣に努力を払う」と外部からの介入に反発した。この思いは「アラブの春」の動きに結実している。

②これまでのたたかいが基礎

 もう一つ大事な点として見ておかなければならないのは、こうした変化の基礎には、これまでの人民や労働者のたたかいがあるということだ。近年の運動をみてみたい。

 エジプトで、無党派の人々とともに政変の中心となった勢力は、数年来、労働運動を支え、パレスチナ人に連帯し、イラク戦争に反対する運動を続けてきた人たちだ。たとえば、北部の大繊維工場で労働争議支援を掲げてつくられた「4月6日運動」(2008年)、アレキサンドリアの警官たちの横暴を糾弾したソーシャル・メディア「われらはみな、ハーリド・サイード」(2010年)、2000年のパレスチナ人たちのインティファーダ(蜂起)と連帯し、イラク戦争に反対する運動を母体として結成された「キファーヤ(もうたくさん)」などをあげることができる。

 チュニジアの労働運動の歴史は、この地域ではいちばん古い。1956年にフランスから独立を勝ち取る前から、チュニジア労働総同盟は、経済・社会・教育の要求を提起し、ヨーロッパの国際自由労連にも働きかけ、独立運動に対するフランスの弾圧を知らせた。近代的憲法を持ったのも1861年と、この地域ではいちばん早い。次々と弾圧でつぶされてきたが、労働者の蜂起は続いていた。

 80年代末、パレスチナ占領地に広がったパレスチナ人の非暴力の抵抗運動は、1979年のイラン革命と並んで、現下の中東民主化運動の先駆けと呼ばれている。1987年、イスラエルの占領に反対するパレスチナ人のたたかい、第一次インティファーダ(蜂起)が起こった。武装したイスラエル軍に対するストやデモ、投石などによる抵抗運動は、ガザから占領地全体に広がっていった。パレスチナ人たちは、幅広い民族統一指導部を結成し、地場産業の育成にも取り組んだ。
 
 いま、パレスチナ人たちは逆に、アラブ諸国の民衆の運動から刺激を受け、分裂した指導部の統一や、物価高や失業に抗議する運動を進めている。

 このように歴史を見ると、長い間のたたかいが、今日の運動の基礎になっていることがわかる。

(2)歴史的背景

 アラブ人がたたかいに立ち上がった背景には、新自由主義経済による生活破壊もあれば、長期にわたるアラブ社会の病巣もある。しかし、その背後には19世紀から20世紀にいたる西側諸国の植民地支配の歴史がある。

 エジプトやチュニジアなど北アフリカ諸国は19世紀半ばから、シリアやメソポタミア、パレスチナは第1次世界大戦(1914~1918)後、西側諸国の植民地支配の下に置かれた。第1次世界大戦は西側列強による世界再分割の戦争だが、中東については、アラブ地域を含むオスマン帝国の領土の争奪戦だった。特に、イギリスの政策は「三枚舌外交」とも呼ばれ、植民地大国の身勝手さを典型的に示している。

 イギリスはフランスと、シリア、パレスチナ、メソポタミアという重要な地域を分割する密約を結んでおきながら(1916「サイクス・ピコ条約」)、アラブ側に対し、オスマン帝国に反乱を起こせば、アラブ側が要求するほぼ全域で独立を承認すると約束(1915-1916「フセイン・マクマホン書簡」)。一方で、欧米のユダヤ資本の協力を得るため、パレスチナへのユダヤ人の「民族郷土」建設を支援すると約束(1917「バルフォア宣言」)した。
 戦争に勝利した英仏は1920年から、国際連盟に代わってアラブ地域の委任統治を始める。イギリスはイラク、ヨルダン、パレスチナの、フランスはレバノン、シリアの委任統治を始める。イギリスは、アラブ側との約束を反故にし、大量のユダヤ人移民をパレスチナに受け入れた。30年代のナチスによるユダヤ人迫害はこれに拍車をかけ、ユダヤ人口は委任統治の25年間に、約8万人から60万人に、パレスチナ人口の11%から31%にまで激増。混乱を収拾できなくなったイギリスは1947年、創立間もない国連にこの問題を預ける。

 国連は同年、パレスチナ分割決議を採択、パレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ・アラブ人国家に分割し、三宗教の聖地エルサレムは国際管理のもとに置くと決めた。この決議は、当時全人口の三分の一、土地所有の7%しかないユダヤ人にパレスチナの57%の土地を与えるものだった。翌年イスラエルが一方的に独立を宣言し、これを認めないアラブ諸国がイスラエルに攻め込んで第一次中東戦争が始まる。

 アラブ人にとって未解決のパレスチナ問題が、西側の植民地主義に対する民族解放運動という大義であり続けている背景には、こういう経過がある。

 第二次世界大戦後の40年代から50年代にかけて、アラブ世界で反植民地、民族主義の運動が起こる。シリア、レバノン、ヨルダンが独立、エジプト、チュニジア、イラクでは、王制が倒されて共和制が実現した。60年代から70年代にかけて、湾岸諸国でも英保護領から独立する動きが起こる。

 中東諸国の独立運動を抑えきれなくなったイギリスは1971年、スエズ以東の湾岸地域から撤退し、アメリカがこれに代わって中東地域への関与を強め、西側の権益を守る外交軍事戦略を進めるようになる。その後のアメリカの中東・湾岸政策は、ご都合主義の最たるもの。

 イラン革命以前アメリカは、湾岸の憲兵にイランのパーレビ国王を任じ、その強化に奔走した。1979年、民衆の革命でパーレビ政権が倒れると、今度はイランの封じ込めに奔走する。次いでイラクのフセイン政権が、湾岸諸国を革命イランから守ると言ってイランに攻め入ると、西側の先頭にたってイラクを支援する。

 その結果、強大になったフセイン政権がクウェートに侵攻すると、今度は一転、多国籍軍を結成し、イラクを攻撃、湾岸戦争となった。そしていま、私たちはアメリカが虚構の口実で始めたイラク侵略の残骸を見ている。

(その2へつづく)
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by naraala | 2013-05-10 11:47 | 講演会

中東問題研究家 尾崎芙紀さんの講演(その2)

激動する中東情勢を考える
──「アラブの春」の現状と展望(その2)

[Ⅱ]各国の現状をどう見るか

(1)各国の到達点

 この2年間、10近いアラブ諸国で議会選挙がおこなわれた。内実を伴わない場合も多いが、政府が市民の声を無視できない状況が生まれている。

 アラビア湾(ペルシャ湾)岸諸国やヨルダン、モロッコなどの王政諸国でも、生活苦を訴え、政治改革や議会の権限強化を求め、王族や閣僚の汚職を批判するデモが行われている。ヨルダンでは王政を批判する声まであがった。3月にはクウェートで野党グループが、抗議行動を活性化させるために、イスラム主義者や労働者、学生を含む広範な野党連合を結成、民主的な複数政党制を要求した。これまで見られなかった動きである。

 エジプトでは、2012年6月の大統領選挙で、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党のモルシ氏が勝利した。モルシ大統領は「私はすべてのエジプト人の代表になる」と宣言したが、国論を二分する暴挙に出た。一つは、大統領権限を大幅に強化する大統領令の発布、いま一つは十分な議論もなく早急な憲法国民投票を行ったことである。これに対して「新たなファラオと化した」などと新政権の独裁化を懸念する声があがり、ムバラク大統領を退陣に追い込んだカイロのタハリール(解放)広場をはじめ、全土で数十万におよぶ人々が街路に繰り出した。憲法国民投票は強行されたが、抗議の声のまえに大統領の権限強化宣言は撤回された。

 チュニジアでは、2011年10月の制憲議会選挙で上位3党、イスラム主義政党と世俗政党による連立政権が発足した。憲法制定のプロセスでは「国家と宗教の関係」「女性の地位」「報道の自由」など、チュニジアの議論は他のアラブ諸国に先んじている。「女性は男性の補完的な存在」という文言は女性団体などが強く反発して取り下げられた。
 
 政治の混乱と経済の悪化に国民の不満は高まり、政府は労組と労働条件などを定める社会協定を締結した。2013年2月、野党幹部の暗殺事件が発生、大規模な抗議デモが起こった。その混乱のなか、内相、外相など半数のポストを無所属が占める新内閣が成立している。

 イラクでは米軍の「完全撤退」1周年を迎えたが、爆弾テロや銃撃が荒れ狂っている。原油の増産をテコに経済は一見活況を呈し、外資の参入ラッシュは続いているが、政治には腐敗がはびこり、アメリカの置き土産というべき宗派対立は激化している。失業率は25%と高止まり。宗派主義的、独裁的手法を強めるマリキ首相に対して、昨年末には退陣を求める過去最大数十万人のデモが中部ファルージャやラマディ、北部のクルド地域で起きた。ラマディのデモでは、イラク版「アラブの春」を呼びかける声も聞こえた。

 外部勢力の介入で政権が倒れたイラクと、試行錯誤しながらも民主的な国づくりに前進している国々を取材した、小泉大介「赤旗」カイロ特派員の思いを紹介する(雑誌『月刊学習』2012年2月号)。

 「外国軍の武力による政治体制転覆の誤りを考えずにはいられない。チュニジア、エジプトと、人民自らの力で独裁政権を倒し、試行錯誤を繰り返しながらも新たな国づくりに乗り出している。(…)エジプトの人民議会選挙で投票した多くの人たちが「いま私は、エジプト人であることを誇りに思う」と語った。それを聞くたびに、イラクの人々のことを思わずにはいられなかった」

(2)運動の到達点をどう見るか

 試行錯誤しながらも、運動は新しい段階に進んでいる。現地の活動家や研究者の議論からいくつか紹介したい。
 
 今年3月に外務省などが主催した国際シンポジウムに参加した学者たちの発言では「国民は自分たちが物事を変えることができることを知った」「各国ごとに到達点は異なるが、政府が国民世論を無視できなくなった」「対外政策、とくにパレスチナ問題で国民は発言する権利をもつようになった」「エジプトは完全には変わっていない。しかし時間はかかるが、政治組織も選出された議会もある。対立があるのは当たり前。前進は止まらない」などが印象的だった。

 ベイルート・アメリカン大学のラミ・ホーリ公共政策・国際問題研究所所長は、「デモが起こらなかった国々を含め、アラブ各地で憲法修正を求める運動が起こっている。強権的な支配者を倒すより重要なことだ。法の支配が貫徹する社会を市民が望んでいることが示されているからだ」と、レバノンの「デイリー・スター」紙に書いている。

 レバノン内戦時に、幅広い統一戦線組織「レバノン国民運動」で活動した元レバノン大学教授のマスード・ダーヘル氏は、昨年12月来日したとき、「短期に失敗か成功かの問題ではない。運動を続ければ変化は起きる。たくさん問題があるというが、それがあるからこそ前進する」「これは宗派主義を克服し、民主主義と市民の権利を求める運動だ」と述べている。

 エジプトの野党統一戦線の共同創設者のサバヒ氏は、「革命はまだ途上にある」と述べている。タハリール広場に集まった若者たちも、「革命は続いているぞ!」「暮らしも政治もよくなっていない。あきらめずに運動をつづけなければ。それに加われるのが私の誇り」と訴えている(2012年11月25日付「しんぶん赤旗」)
 今年1月東京で開かれた国際ワークショップで、パレスチナ人研究者倭リード・サーレム氏は「民主主義への道は複雑で時間がかかる。フランス革命だってそうだった。1789年の革命から女性の参政権が認められる1944年まで155年かかった」と述べている。

 これらの発言を聞いて感じることは、「複雑な現実をしっかり認識することの大切さ」とともに、「運動を続ければ、時間はかかっても、民主主義と市民の権利を求める運動は前進する」ということだ。さらにその認識にたって、事態を見ていくことの大切さである。

[Ⅲ]中東の国際関係における構造的変化

(1)パレスチナ問題に見るアメリカの影響力の低下

 「アラブの春」がパレスチナ問題に及ぼした影響を見てみよう。

 《エジプトや近隣諸国の変化》 昨年11月中旬、イスラエル軍の一方的な空爆で始まったガザ危機は、各国の働きかけがじつって1週間で停戦に至ったが、アラブ諸国の指導者らの活発な外交活動に比べて、アメリカの影は薄かった。近隣諸国の指導者らは「われわれは傍観していた昨日までと違う」と述べた。アフガン、イラク戦争の失敗、経済的地位の低下など、米国はもはやかつての超大国ではない。

 併せて、30年以上にわたってイスラエルに次ぐアメリカの中東戦略の柱だったエジプトのムバラク政権が崩壊し、1979年以来の米戦略の構造に大きな変化が起こっている。1979年とは、エジプトがイスラエルとの単独和平を結んだ年、そしてペルシャ湾におけるアメリカの代理人イランのパーレビ国王が広範な国民の運動で倒された年だ。以来、エジプトはイランに代わって、アメリカの中東戦略のお先棒を担いできた。政変後のエジプト新外相が「イスラエルと協力してガザを閉じ込めてきたのは恥辱」という発言をした。

 《問題解決の場は国連に》 米国の影響力が低下するなか、パレスチナ問題は国連の枠組みでの解決に向けて動きつつある。米国とイスラエルはこれまでかたくなに国連主導の国際会議に反対しきた。1993年のオスロ合意以降、「中東和平交渉」はアメリカを唯一の仲介者として進められてきたが、イスラエルは交渉しながら、占領地に国際法違反の入植地を次々に建設、オスロ合意の8年間で157カ所から200カ所に、入植者数を27.5万人から400000人にまで増やした。国連の最新の報告書(本年1月)によるとその数は今や250カ所、入植者数は520000人に上っている。

 こうしたなか、パレスチナ人たちは2011年9月、アメリカの圧力にもかかわらず、国家としての正式加盟を国連に申請した。アメリカの妨害によって国家としての国連加盟はできなかったが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟は、同総会で賛成107体反対14の圧倒的多数で承認された。翌2012年11月、パレスチナ人たちは再び国連に対し、現在の「投票権なしのオブザーバー組織」から「投票権なしのオブザーバー国家」への格上げを求める決議案を提出、国連総会は賛成138(日本を含む)、反対9の圧倒的賛成多数で決議を採択した。注目されるのが欧州諸国の態度の変化だ。

 2011年、パレスチナがユネスコへの加盟を申請したとき、反対票あるいは棄権票を投じた欧州諸国のなかで、今回賛成あるいは棄権に態度を変えたのはイタリア、デンマーク、スイス、オランダ、スウェーデンなど9カ国だ。

(2)米の「アジア重視戦略」のなかの中東

 2011年末、イラク居残り工作も功を奏さず、アメリカはイラクから「全面撤退」、さらにアフガン戦争の「収束」も視野に、アジア重視に軸足を移すという方針を発表した。しかし、オバマ政権のこの「アジア重視」は、中東から太平洋地域への軍事力の単純な移転ではないことが、その後の動きでわかる。

 クリントン米国務長官は最初の訪問をアジア諸国から始めた。しかし、ケリー新国務長官は、ヨーロッパと中東の歴訪から始めている。また、アラビア湾岸地域への米軍の派遣は途切れなく続いている。アメリカの2011年の武器売却総額は、過去最高の5兆2400億円で、全世界の契約総額の78%を占めている。そのうち、イランの脅威を口実に、湾岸諸国は上位を占め、なかでもサウジアラビアは、米国の売却総額のほぼ半分を占めている。

 アメリカは、中東のエネルギー資源を守るために軍の駐留を維持してきたが、アメリカの大手石油会社の幹部は、将来中東石油への依存度が減ったとしても、中東の石油資源が世界経済の安定のカギを握っている事実は変わらないと述べている。

 湾岸諸国のどの国も自衛能力をもっておらず、自国の安全保障を完全にアメリカに依存してきた。米政権は、湾岸諸国の安全を守ると明言しており、必然的に同地域での市民弾圧を容認することになっている。その湾岸諸国でも、いま自由と政治参加を求める市民の声は日増しに強くなっており、各国政府は、早晩その現実に向き合わなければならなくなるだろう。
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by naraala | 2013-05-09 11:49 | 講演会

西山要一さんの講演

西山要一・奈良大学教授の講演

『中東レバノンの遺跡を修復する
─協働を通して相互理解を深める─』


遺跡修復でつながったレバノンの人たち

d0117895_1917434.jpg 別掲のように、8月12日、奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(ナラーラ)は、奈良市のおかたに病院多目的室で「講演とアラビア音楽ライブ」の集会を開催しました。
この集会で、人文科学・自然科学などの研究分野を多面的に駆使して文化財を研究する「保存科学・修復学」を担当してこられた西山要一・奈良大学文学部教授が、「中東レバノンの遺跡を修復する──協働を通して相互理解を深める──」という演題で、スライドも使って、約1時間20分にわたって講演されました。その講演の要旨を紹介します。

(1)レバノンという国について

5000年前に、すでに優れた文明が

日本では、レバノンといってもあまり知られていませんが、地中海の東の端に位置しており、5000年前には、すでに優れた古代文明があったといわれるところで、東西南北の文明の十字路として栄えたところです。首都ベイルートの南約80キロにあるティールはフェニキアの中心都市として栄えた港町で、ここを拠点に航海上手のフェニキア人は、地中海を縦横に往来し、各地に植民地をつくっていったといわれています。

多民族国家で、政治状況は日本とはかなり違いますが、私が接したレバノンの人々は、家族愛、豊さ、平和を求めており、その点では日本の庶民と変わりはありません。人口は400万人、同じほどの国民が海外で活躍しています。面積は1000平方キロ。

国の南北を高度3000メートルの級の山もあるレバノン山脈が貫いており、その西側は、地中海からの湿っd0117895_19385831.jpgた空気がその山脈に当たって降雨量の多い地域で、有名なレバノン杉が育ち、それがガレー船など船舶をつくる木材となりました。現在でもレバノン山脈のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観とも言われています。カディーシャ渓谷は、レバノン杉が現在も自生している地でもあります。山脈の東側のベカー谷はリーブ、ブドウなどがとれ、さらに東のアンチレバノン山脈をこえるとシリアとなります。

航海術にたけたフェニキア人

d0117895_19424914.jpg海岸に沿って、北からトリポリ、ジュベイル(ビブロス)、ベイルート、サイダ ティールと、船で1日行程海の間隔で港湾都市が連なっています。南のエジプト文明、北西のギリシャ文明、東に行けばチグリス・ユーフラテスのアッシリア、古代ペルシャ文明などが行き交う、まさにその十字路にレバノンは位置しているわけです。

その一つの証が「レバノンの入口」にたとえられるナハル・エル・カルブ(ドッグリバー)の岸壁に、古代から近代までの征服者が刻した碑文が残っていることです。古代エジプト第19王朝のラメセス2世(位前1304頃~前1237頃)からナポレオン3世(位1852~70)まで、ここに名を刻んだ歴史上の人物は枚挙に暇がありません。

レバノン周辺は、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃にかけて、都市国家を形成し、地中海を舞台に活躍したフェニキア人の地でした。紀元前9世紀~紀元前8世紀にかけて、内陸の国である、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア地方の諸都市は、政治的な独立を失っていきました。その後は、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、アラブ、十字軍、オスマン・トルコの支配下に、そして第一次世界大戦後はフランスの統治下におかれるなどの変遷をたどっています。第二次大戦後に独立をかちとりますが、イスラエルの建国にともない、イスラエルとアラブ諸国との間で起こった、第1次中東戦争により、イスラエル軍に追われ、難民となったパレスチナ人が、レバノン、ヨルダン、シリアへ避難しました。レバノンに避難した PLOやパレスチナ難民とイスラエルとの紛争などを通じて、たびたびレバノンはイスラエルの攻撃を受けることになります。この緊張状態は現在も続いています。

ヨーロッパの人たちから見て、文化発祥の地

ヨーロッパの人たちは、レバノンを「文化発祥の地」「日の昇る地」と呼んでいます。というのは、ビブロスに残る王の墓から発見された石棺に22の子音による最古のフェニキア文字が刻まれているからです。BC13~12C、東地中海一帯を政治的混乱に陥れた「海の民」の攻撃を受けてエジプトの勢力が弱体化すると、フェニキアの諸都市は独立的な都市国家となり、その黄金時代を迎えました。

d0117895_1944577.jpgフェニキア人は1つの文字が1つの音を表す表音文字を使うようになりました。そして地中海全域を行き来していたそのフェニキア人によって、各地に伝えられ、ギリシャ文字、ラテン文字など、改良されて現在のアルファベットの形になったのです、そこから「文化発祥の地」といわれているのです。
ビブロスの名は、パピルスを意味するギリシャ語です。また、聖書(バイブル)の語源でもあります。

レバノンの5つの世界文化遺産

レバノンで世界遺産に登録されているのは、いま述べたビブロス遺蹟を含めて、バールベック、アンジャル、ティールの4ヵ所。そして自然遺産のカディーシャ渓谷(聖なる谷)と神の杉の森(ホルシュ・アルゼ・ラップ)の5つがあります。

ビブロスは海洋交易民族のフェニキア人が築いた7000年の歴史を持つ古代都市遺跡が残っています。ビブロスは、泉を中心にした町で、紀元前2世紀頃のビブロス王の墓、紀元前2800~2600年頃のオベリスク神殿、ローマ時代の円形劇場や列柱発掘されました。

バールベック遺蹟には、ローマ帝国が造ったジュピター神殿や、バッカス神殿、ヴィーナス神殿があります。

アンジャル遺蹟には、広大な地域を支配していたウマイヤ朝(661~750年)の第6代カリフ(後継者の意)であったアル・ワリード一世が7世紀後半に建設したレバノンに唯一残るウマイヤ朝の都市遺跡があります。
ティール遺蹟には、神殿や列柱、凱旋門、水道橋、大浴場、劇場、墓地、戦車競技場などが残っています。

レバノン山脈最高峰のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観ともいわれています。「カディーシャ渓谷と神の杉の森」は世界文化遺産登録名で、レバノン杉が現在も自生している地です。カディーシャとは「聖なる」という意味です。写真はそのレバノン杉です。

           
(2)レバノンでの遺跡修復活動

ティールの世界遺産地区の東、約2キロメートルのラマリ地区で、奈良大学の考古学調査隊は、2002年度から現地の協力も得て、ローマ時代の地下墓、堀込墓の発掘にとりくみ、テラコッタの神像などを発見しました。

2004年度から、同地区で、西山要一を代表者とする奈良大学保存修復隊が、壁画地下墓TJ04の保存修復研究をおこない、2007年度に修復を完了しました。

壁画地下墓T.01の発掘、調査、修復

そして、2009年度から新たに同じティール市郊外のブルジェ・アル・シャマリ地区にある壁画地下墓T.01の発掘、調査、修復に、奈良大学とレバノン考古総局との共同研究としてとりくみました。今日はT.01遺蹟の発掘と修復、調査などについて報告します。

d0117895_19464957.jpg壁画地下墓T.01は、ラマリ地区の壁画地下墓TJ04の南、約1キロの丘陵の斜面にあり、その北には民家が隣接していました。地上表面と地下墓室へ下りる階段には草が生い茂り、瓦礫の捨て場になっていました。墓室入口の保護鉄扉は腐食して著しく損傷していました。墓室に入ると、床には岩盤掘込石棺の蓋石や破壊された土器が散乱しており、天井は崩落していました。4つの壁にある壁画も2割ほどが剥落していました。

それでも残っている壁画には、鮮やかに彩色された孔雀・鳥・魚・パン・壺・花などとともに、ギリシャ語で書かれた碑文がありました。これら残されていたものは、この地下墓の価値と保存することの重要性をはっきりと示していました。

2009年度は、壁画地下墓T.01の記録作成に重点を置いて調査をおこないました。横長の平面プランの墓室には岩盤掘込石棺6基と甕を据える坑があり、床はモザイクで飾られていました。またモザイク床にはこの地下墓の築造年が描かれていました。それによると紀元196~7年であることがわかりました。

2010~1年度は、遺構の記録や出土遺物の整理、保存環境調査など、基礎データーの収集整理にとりくむとともに、壁画のクリーニング、出土人骨の鑑定、地下墓室内の微生物の調査などをおこないました。また、地表にあった石切り遺構、岩盤掘込石棺の調査もおこないました。この時、地下墓および地表遺構の三次元測量もおこない、実測図を作成しました。

壁画地下墓T.01の調査内容

壁画地下墓T.01の調査で採集された遺物は、壺、ワイン壺、ランプ、ガラス瓶、壁画、モザイクなどの断片など600余りに上ります。それぞれ写真撮影や実測図作成をおこない、機種や時代を検討しました。

ガラスや顔料などの組成元素分析をおこないました。最初の調査で出土したガラスなど7件・12点を、レバノン考古総局の許可を得て、奈良大学に持ち帰り、蛍光X線分析装置を使って分析をおこないました。アラスはアルカリ石灰ガラスでローマ時代の特徴を示し、顔料の赤はベンガラ、緑は緑土とわかりました。

墓室内の床と、岩盤掘込石棺より発見した人骨を鑑定しました。鑑定の結果、棺に納められていたのはいずれも成人の人骨であることがあきらかになりました。放射性炭素年代測定法による測定もおこない2世紀頃のもとと推定されました。

カビ・バクテリアは、文化財を損傷する要因の一です。特に壁画にカビが生じると、彩色が変色・褪色して風合いを失うばかりでなく、壁画そのものが消滅することになりかねないので、修復完了後の保存計画に組み込むために、その調査を念入りにおこないました。その結果、数十種のカビを検出しました。

墓室内の温度・湿度の連続測定をおこなうなど、保存環境の観測をつづけました。発掘・調査にともない、温度・湿度の変化は、やはり増えていました。扉を閉じて人が出入りしなければ変化は緩やかなものと予測されました。墓室内の安定した湿度と温度と日光が射しこまないことが壁画の鮮やかさを保ってきたことがわかりました。

壁画の赤外線写真撮影

1800年の歳月を経た地下墓の壁画は、発掘調査をした時点でも、色彩が鮮やかに残り、作られた当時の華やいだ墓室を髣髴とさせるものがありました。しかし仔細に観察すると壁面は、表面を白い石灰質の膜が覆っており、茶色の土汚れが付着し、鮮明さを失っているところも少なくありませんでした。
そこで、オリジナルの壁画を画像で再現するために、軽便なデジタルカメラによる赤外線写真撮影を試みました。

その結果、西壁の孔雀の体の描線、足で踏みつける草花の茎、口に片方を咥える花綱が鮮明に映りました。また東壁の壺のスタンドや全体の描線、筆から垂れ落ちたような黒いシミなどが鮮やかに映し出されていました。北壁の逆さ吊りの鳥の翼や体の描線、口から筋となって滴り落ちる血の描写も判明しました。

壁画とその修復

d0117895_195019.jpg壁画のクリーニングすすめたところ、南壁東側に「さらばリューシス、誰だって死ぬのだから」(左の写真)という碑文が鮮明になるとともに、その下にリューシスの肖像が描かれていることが分かりました。

また墓室のモザイク床には「元気だせよ、誰だって死ぬのだから 322年」という碑文(右の写真)がみつかりました。ティール暦322年は西暦では196/197年にあたります。このほか、漆喰壁の強化、壁面の浮き上がりや亀裂の修復に、日本の文化財修復士とイタリアの文化財修復家がとりくみました。

地表部掘込石棺墓の調査

地表部掘込石棺墓は、岩盤をくりぬき、その上に蓋石を乗せた構造になっていました。多くが盗掘にあっていましたが、一つだけ奇跡的に盗掘を免れていました。その墓の蓋をとりはずし、流れ込んだ細かい土を慎重に取り除いていったところ、石棺の半分が石で覆われており、それをさらに取り除いたところ被葬者の膝付近の側石に寄りかかるように裏返しの陶製のマスクがみつかりました。

d0117895_201517.jpgマスクは、縦の長さが23センチ、横幅17センチで、顎にはひげをはやし、頭に二本の角をもち、耳の上部がとがり、こわもての様相です。その特徴から、牧羊神パンだと推定しています。
 マスク以外に、ティールの紋章のあるコイン、貝殻、ガラス玉260個などが発見されました。

国際的・学際的な協力による調査活動

今回の調査は、日本側からは奈良大学の保存科学に携わる者に加えて、他の大学などの考古学者、人類学者、微生物学者、三次元測量学者、それに文化財修復しなどが参加しました。レバノン側からもレバノン文化省考古総局の担当官、レバノン大学などの考古学・遺跡修復の教授、美術史・絵画修復の教授、イタリアの文化財修復家、韓国の保存科学者など、国際的・学際的協力でおこないました。

現地での修復作業は、ワーカーや商店やレストランの人々、軍や警官との出あい、そして彼らの家族との親密なつきあいに導いてくれます。これこそが、他民族・他文化とのほんとうの交流ではないでしょうか。

国際色豊かな壁画調査・修復チーム
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by naraala | 2012-10-14 20:02 | 講演会

集中講座 アフリカ問題

「アフリカのこと
丸ごと知りたい」


AALA常任理事の高林敏之さんを講師に
連続講座


ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)は3月25日、奈良市内で、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会常任理事・西サハラ問題研究室主宰・早稲田大学非常勤講師の高林敏之さんによる「アフリカのこと丸ごとを知りたい」と題する集中講座を開き、会場いっぱいの50人が参加しました。

集中講座は、①アフリカ近現代の歩みを知るために、②アフリカ民主化の波と「北アフリカ革命」、③アフリカは日本とどう関わってきたか──の三つの柱で、4時間余りにわたっておこなわれました。わかりやすく、しかも丁寧ない説明に、参加者は耳を傾け、熱心にメモを取る姿も多く見られました。

以下、高林さんの講義の要点を紹介します。


第一講義──アフリカの近現代の歩みの特徴

アフリカの多様性を理解することの重要性

「アフリカ」というと、ひとくくりにして語られたりすることが多いが、面積でいえばアジア全体に匹敵し、総人口は約10億人、人種も多種多様で、言語集団も800から3000ともいわれる多数の民族が住んでいる大陸である。現在、「サハラアラブ民主共和国=西サハラ」を含めると55の国からなっている多様な地域である。このことをまず認識してほしい。

アフリカに引かれた人為的な国境線

アフリカの政治地図についていえば、19世紀にヨーロッパの列強によって、アフリカを植民地として分割する支配が始まり、民族や歴史的背景とほとんど合致しない人為的な国境線が引かれ、それが今日にいたるいろいろな矛盾の要因となっている。

そのアフリカの植民地化も、時代的にはアジアや中南米の植民地化に比べて比較的新しく、ヨーロッパやアメリカでの産業革命による機械制大工業の発展にともない、16世紀から続いていた奴隷貿易が終息するなかで、19世紀末から20世紀の初めにかけて、ヨーロッパ列強によってあらたな植民地化として進められた。探検→宣教→軍事侵略という形で進められ、その仕上げが1984年から1985年にかけて開かれたベルリン会議で、分割境界線が確定された。

そのなかでも、ベルギーのレオポルドⅡ世が、コンゴをみずからの私有地植民地としてゴム生産を独占した。そして、ベルリン会議がレオポルドⅡ世の支配を容認した。その結果、ゴム生産における強制労働や虐殺がおこなわれたのは特徴的である。

抵抗の歴史と独立の経緯──その裏面も

そのように植民地として分割支配されるなかでも、アフリカはたんに「奴隷化され植民地化された」地域として存在しただけでなく、そこにはさまざまな抵抗の歴史があった。そして、第二次世界大戦が終結した後、つぎつぎに独立を獲得していったのである。その抵抗の多くが、ナショナリズム政党による不服従運動や労働運動などを通じての非暴力的闘争で独立をかちとっていったのである。それに比べて、ヨーロッパ系入植者の多い国では激しい武力闘争もおこなわれた。

1960年は「アフリカの年」といわれるように、一気に17カ国が独立をかちとった。それは、アフリカの栄光の姿といえるが、その裏面もよく見ておかねばならない。とくにフランスがその植民地だった国々に、「独立」や「自治」を付与するのと引きかえに、それらの国々をフランスの経済的支配下に置く「フランコフォ二―」(フラン圏)を作ったことを見ておかなければならない。それは、それらの国々にあった「アフリカ・ナショナリズム」の動きがドゴールに屈して敗北したことのシンボルでもあった。

現代アフリカに関する「誤解」

現代アフリカに関してはいくつかの「誤解」がるので、解明しておきたい。

白人の入植はごく一部


その一つは、「アフリカはプランテーション(入植地)制のモノカルチャー経済」だという「誤解」についてだ。

一部地域を除いてアフリカは、ヨーロッパ人にとっては居住に適さず、それらの地域への本格的な白人の入植はおこなわれなかった。それらの植民地では、課税と間接統治を通じて、現地農民に商品作物の生産や、アフリカ台地に眠る鉱物を掘り出すための鉱山労働に従事させるという支配の形態をとったのが実態だ。

プランテーションが存続したのは、南アフリカ、ジンバブエ、ケニア高原などである。これらの国々では、現地住民の土地収奪がおこなわれ、それにたいして現地住民による白人入植者に対する激しい抵抗がさまざまな形で長年にわたって続いた。それを白人たちが暴力で抑えつけたのである。

民族紛争という表現

もう一つの「誤解」は、「アフリカの紛争は民族(部族)紛争だ」という表現がなんの躊躇もなく使われていることだ。

ヨーロッパ列強が確定した国境線を「ネエイション(国民)」形成の枠組みとしていることからアフリカ人を「ネイション段階に達していない」と一方的に規定した概念として「部族」という言葉が使われている。これは大きな間違いだ。

同時に、植民地単位で独立したアフリカ諸国の指導者やエリートのなかにも、「部族」概念の呪縛を抜けられず、「部族主義の根絶」と「国民統一」の名目で、一部指導者による独裁体制を正当化する動きがあったことも見ておかなければならない。


第二講義──アフリカ民主化の波と「北アフリカ革命」

北アフリカで2011年に、チュニジアを皮切りにエジプト、リビアと続いた革命の波が、もっぱら「アラブの春」の一環として語られている。それらの諸国がアラブ世界の一部をなしていることは事実だが、同時にアフリカ大陸に位置するという事実を軽視すべきではない。

なかには「(アラブの春)が独裁体制の多いアフリカに波及する」という言説さえ見られるが、そういう認識は、1990年代以来アフリカにおいて着実に前進を遂げてきた民主化の事実を無視するもので、「アフリカの後進性」という誤った固定観念の産物だ。

アフリカを覆いつくした独裁体制

独立後のアフリカ諸国を、1980年代までは、一党独裁体制が覆いつくしていた。その体制を正当化する論理は次のようなものであった。

その論理の第一は、「国民(ネエイション)の統一」というものだ。アフリカ諸国のほとんどが、ヨーロッパ列強による植民地分割によって国境線が画定され、それが独立した国のスタートとなっているために、国内には多様な民族・言語・文化をかかえていた。ナイジェリアやスーダンのように数百の民族を擁する国もあるぐらいだ。逆に一つの民族が複数の国に分断されている例も珍しくない。ソマリア民族は4つの国に分断されている。

こういう状況の中で、国境を再画定することは不可能である。そこから「分けられた地域単位でネエイションをつくるべきだ」と、多民族国家を一つに「統一する」、「団結する」というところから、多党制を否定する論理となっていった経緯もある。

いま一つは「アフリカ社会の共同性」という論理である。階級闘争に否定的な「アフリカ社会主義」の基盤となるものだった。

また、1960年に勃発したコンゴ動乱で、南部の鉱山地帯のウガンダ州が、欧米資本や傭兵の支援もとで分離独立を宣言したことから、「植民地主義者の分裂策動をふせぐため」という名目で「部族主義」「分裂主義」への対抗として独裁体制がつくられるという事態もあった。

一党独裁の実態は、國民の富の横領・独占

そうしてできた体制が、国民の利益を擁護するものだったのかといえば、まったく逆だったことが明らかになった。
一党独裁体制は、大統領など最高権力者・統治者の親族・取り巻きや出身民族などを、国家の限られた権益に優先的にアクセスさせる装置となり、「パイの平等な分配」ではなく、富の独占・横領が常態化し、政治腐敗と人権抑圧を蔓延させるにいたった。そして、この権益から疎外された民族や国民の異議の申し立てに対しては、「部族主義」のレッテルを貼って弾圧するにいたったのである。

こういう体制のもとでは、国民の信頼を失った政権を、選挙を通じて交代させることは不可能で、暴力的手段や民衆蜂起によるしか政権交代の道がなく、いわゆる「世直し」の期待を背負った軍事クーデターの続発と軍事独裁政権の続出となった。しかし、当初は革新の期待を背負った軍人の指導者たちも、多くは倒した政権と同じ道をたどり、新たな独裁体制を敷いて大統領に居座り続ける事態となったことが長期にわたる暗黒の時代をつくりだした。

1990年代には政治的地殻変動が

1963年には、「アフリカの共同」を追求する組織として、「アフリカ統一機構(OAU)」が創立されたが、その機構の「原則」とされたもののなかに「内政不干渉」があった。大国の干渉を排除するという積極面もあったのだが、もう一面で、アフリカにおいてそれぞれの国でおこなわれた人権侵害や反民主主義体制、クーデターをこの原則で容認するという弱点も生み出した。その「内政不干渉」の原則の限界が明らかになるなかで、2002年にOAUを改組して「アフリカ連合(AU)」が誕生し、クーデター政権の資格停止を「憲章」に明記、早期に民政への復帰を促すなどの措置が取られるようになった。これは大きな前進だった。

そのきっかけとなったのは1990年代で、ナミビアの独立、エリトリアの独立、南米のアパルトヘイト終焉など、アフリカには地殻変動といっていい政治的変化がおきたことである。そこから一気に多党制が実現し、十数カ国で与野党の政権交代がおこなわれ、過半数の国で、国際的にも「民主的」と認められる定期的な選挙が実施されるまでになった。

そして「アフリカの結束によってこそ、アフリカの国としての力を示せる」ことに確信を持つようになり、アフリカの協働への前向きの変化が起きている。クーデターの起こるケースも2000年には激減した。

AUの諮問議会として「パン・アフリカン議会」が設置されたが、これは民主化が定着した国々の声をAUに反映していく機関となった。また、AUの下位地域共同体として「西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)」や「南部アフリカ開発共同体(SADC)」が形成され、それらの地域では民主化が大きく進展した。それに比べて、北部、中部、東部での立ち遅れが目立つ。


民主化の立ち遅れた北部で「北アフリカ革命」が

2011年の「北アフリカ革命」は、1990年からの20年間に進展したアフリカ民主化の波が、北アフリカに達して起こったものだということを認識しておく必要がある。非民主的な政権獲得や居座りを否定し、選挙民主主義を支持する政治文化が、アフリカに着実に広がりつつあるからこそ、北アフリカ諸国における暴力による政権維持を許さないという圧力は、西アジアのアラブ諸国とは比較にならないほど強力なものとなり、それが政変を引き起こした。

さらに、サハラ以南のアフリカの民主化の状況は、アラビア半島に位置するアラブ諸国の権威主義体制とくらべ、特筆すべきものである。とくにバーレンでの民主化運動を粉砕するために「湾岸協力評議会(GCC)」が軍事介入をしたことや、モロッコの西サハラ軍事占領の事実がそれを示している。

そして、北アフリカの民主革命は、将来、アラブ全体に波及するとともに、アフリカに残っている独裁体制にも圧力として還流する歴史的可能性を含んでいる。

アフリカおよびアラブ諸国の民主化状況

国際NGO「フリーダム・ハウス」のFreedom in the World2011年度版による「政治的権利・市民的自由」の7段階評価の数値を使い、北アフリカ、西アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アジアに分けて、各国の民主化度を示す表を提供したが、それによるとアフリカに比べて西アジアの民主化が大きく遅れていることが一目瞭然である。


第三講義──アフリカは日本にどう関わってきたか

「手が汚れていない日本」は本当か

ポスト冷戦時が明確になった1993年以来、日本は「アフリカ開発会議(TIDAC)」を5年に一回開いてきている。日本政府、なかでも外務省は、日本のイニシアチブで開かれているこの会議を、「より大きく長期的な日本の国益を実現させる為の一つの手段」と位置付けてきた。そして、日本が行うアフリカ外交は、「利他主義」に基づく援助外交に他ならないというイメージづくりに力を入れ、そのイメージがあたかも実体であるかのように一人歩きし始めるにいたったのである。しかし、はたして「手が汚れていない日本」は本当か。

植民地主義の立場に立った戦前の日本

遡れば日本は、少数の白人が支配する南アフリカ政権と密接な関係を持ち、1910年にはケープタウンに「名誉領事館」を開設した。アパルトヘイト体制の南アとの主要な貿易相手となったのである。1935年ごろには、他の黄色人種とはちがって、「名誉白人」とよばれ、白人しか出入りできないところへも「ジャパニーズ」を振りかざして、出入りしたのである。まさに植民地主義者の立場に立っていたといえる。

さらに、第一次世界大戦でドイツが敗れ、ベルサイユ講和条約が締結される際には、旧ドイツ植民地分割で、主導的な役割を果たしたことも見ておかねばならない。ナミビアの併合を強く要請する南ア政府と協働し、太平洋の赤道以北の南洋諸島を、日本の信託統治下に置くことを要求、日本帝国の法規がこの地域では適用されるという「C級委任統治」という形で「併合」を実現したのである。これは戦後のことになるが、南アによるナミビア占領支配は1990年まで続いた。その間、国連ナミビア理事会のもとにナミビアはおかれる建前になったのだが、南アの不法占領は続き、そこで産出されたウランを日本の原子力公社は南アから買い付け、それが日本国内の原発に使われている。

欧米列強による植民地の国境線を確定させたベルリン会議の際には、日本は列強の一つとして、アフリカにおける他の植民地保有国とともに、アフリカ植民地での経済的権益獲得に参画して「コンゴ盆地条約」を締結させた。

戦後のアフリカ外交は「西側陣営の一員」として

戦後の日本のアフリカ外交の特徴は、「資源重視、人権・自決権軽視」にある。

アパルトヘイトを取り続ける南アの白人政権と密接な関係を持ち、南アの世界最大の貿易相手国が日本だったのである。戦前から続いて「名誉白人」という扱いを受け続け、非同盟諸国会議などで日本は名指しの批判をうけた。

南ア、旧ポルトガル植民地、西サハラなどでの民族解放運動を、国際的には「準国家」として扱っているのに背を向けて、それに対し「反乱国民」と否定的な姿勢を取り続けている。

さらにザイール(現コンゴ民主共和国)のモブツ政権、ニジェールのクンチェ軍事政権、マラウイのバンダ政権、ケニアのモイ政権や、モロッコ王国、エチオピア帝国など、親西的な独裁体制との友好関係を日本は取ってきた。

これらの事実の根底にあるのは、植民地支配者の目線でアフリカを見ている「ユーロアフリカ的外交政策」にある。

今も変わらぬアフリカ外交

講義の冒頭に述べた「アフリカ開発会議((TIDAC)」も、援助提供者主導が露骨なプロセスであり、「アフリカ連合(AU)」を2011年まで共催者に加えず、「アフリカのオーナーシップ」と「パートナーシップ」の尊重という建前に背反する姿勢を日本政府は取り続けてきた。

「開発の権利に関する決議」「グローバリゼーションと全ての人権の完全な享受に対するその影響に関する決議」「民主的で平等な国際秩序の促進に関する決議」など、非同盟諸国が主導する国連総会の関連決議に、他の欧米諸国とともに一貫して反対してきている。

また、債務減免や途上国産品への市場開放に対する消極姿勢も顕著だ。中国がアフリカの農産物について95%を無税にしていることとくらべると、日本の姿勢はほんとうにアフリカの利害を考慮に入れているのか疑わしい。

さらに、アフリカが求めている「普遍的人権」も背を向けていることについても、「人種主義的実行の不認容に関する決議」への反対、「人権を侵害した人民の自決権行使を妨げる手段として傭兵の利用に関する決議」への一貫した反対、「人権と一方的な強圧的措置に関する決議」への一貫した反対などなど、アフリカなど第三世界側が提起する国連総会への人権関係決議に、日本は否定的投票行動をしめしてきた。

ソマリアの「海賊問題」での日本の行動の危険

ソマリアでは、いま無政府状態が続いているが、それを利用して、諸外國の船舶が、ソマリアの海域に放射性廃棄物、カドミウム、水銀など有害廃棄物を投棄したり、水産資源の乱獲をおこなったりしている。これは国連事務総長ソマリア特別代表や国連環境計画、国連食糧農業機構などの報告でも明らかにされていることで、まさに「海賊」はこうした諸外国の船舶の違法活動にこそある。

「無辜の民」はソマリア人たちであって、ソマリア人の資源を奪い、生活を脅かし、災厄をもたらした船を守るために、ソマリア人たちを排除し、処罰しようとする諸外国海軍による「海賊対処」行動は、ソマリア人にとっては、不当な抑圧であり、本末転倒である。

しかも日本の自衛隊がソマリアに出動する根拠とされている「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」では、「海賊」を日本の法により拘束し処罰できることを定めており、ソマリアに限定されない恒久法となっていることもみておかねばならない。まさに、世界的な治安出動と、現地人処罰を可能にした法律であることから、日本国憲法の9条を真っ向から否定するものだ。

また、自衛隊はジブチにその基地を置いているが、ジブチ政府との間では「交換公文」によって日本人要員が起こした事件に関する司法権は全面的に日本が握るという在日米軍の日本での特権を上回るような治外法権を押し付けたのである。

ソマリアの「海賊問題」を利用しての抑圧的な軍事行動と、植民地主義的な地位協定による自衛隊の世界展開をはかるという事態は、「憲法九条は死んだ」という状態をつくりだしている。「憲法九条を復活させる戦いが必要な段階にいまは来ている」。

                                             (報告 西浦 宏親)
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by naraala | 2012-06-22 15:25 | 講演会