ナラーラ
2016-12-02T23:38:13+09:00
naraala
奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会
Excite Blog
アフリカ問題学習 第4弾! 12月11日(日)午後2時~
http://naraala.exblog.jp/23635355/
2016-11-23T11:54:00+09:00
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最新のお知らせ
地域情勢と安保法制
-ソマリア・南スーダン-
講師 高林敏之さん
めったに聞けない! 高林敏之さんはアフリカ問題の専門家です
昨年9月19日に自民党・公明党によって強行採決された安保法制(戦争法)を、安倍政権は実行段階に移しつつあり、日本国憲法の平和主義はいまや瀕死の状況にあります。
なかでも安倍政権は海外拠点の一つとしてアフリカを重視し、このままいけば殺し殺される危険が日増しに強まっています。
いま、アフリカで何が起こっているのかを高林講師に縦横に語っていただきます。アフリカを身近に学ぶ絶好の機会として 是非ご参加ください。
12月11日(日)午後2時から4時半
奈良県文化会館第二会議室
*参加費 500円 (但し、会員および当日入会者は無料)
*予約なしでも、どなたでも参加できます
*当日は奈良マラソンがありますので、車でお越しの方はご注意ください
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ニュージーランドを知ろう!
http://naraala.exblog.jp/23340961/
2016-07-29T10:48:17+09:00
2016-07-29T10:48:09+09:00
2016-07-29T10:48:09+09:00
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最新のお知らせ
★日時:8月21日(日)・午後2時~4時半
「さくら診療所」
奈良県の国際交流員の
ニュージーランド人(男性:オルモンド バン マリウス)を
お招きして国の生活や文化を映像を交えて話ししてくれます。
彼はマオリの血をひいているそうで、マオリ族の歴史も語ってくれます。
ギター演奏もしてくれるそうです。
飲み物などもご用意しております。
参加費 無料
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岡真理さん講演 報告
http://naraala.exblog.jp/21126197/
2014-09-18T23:15:54+09:00
2014-09-18T23:16:18+09:00
2014-09-18T23:16:18+09:00
naraala
講演会
繰り返されるジェノサイド 封鎖・占領・植民地主義
~完全封鎖下のガザを訪ねて~
ナラーラの主催で京都大学の岡真理さんが講演
ナラーラは、現代アラブ文学とパレスチナ問題がご専門の岡真理さん(京都大学)を講師としてお招きし、標題名の講演会を開催しました。開催日時は9月6日(土)午後2時から4時30分まで。会場は奈良県文化会館AB会議室。今次のイスラエルによるガザ攻撃に対する関心の高さを反映して、100人の方が参加されました。
講師は、学生の時からパレスチナ問題を現代世界に生きる人間の思想的課題として考え続けてこられ、しかもご自身が現地に入りご自分の眼で現実を見てこられ、現地発の確かな情報に基づいてイスラエルのガザ攻撃の不当さとパレスチナ問題の本質を訴え続けてこられました。それだけにお話は、広がりと深さにおいて、2時間という時間では語りつくせないものだということが感じ取られました。
イスラエルはガザに対する攻撃を、この6年間に3回行っています。
今次(2014年)の攻撃は、現地時間で7月7日から8月26日まで51日間に及びました。イスラエルによる今次攻撃の目的は、4月のハマース(ガザ)とファタハ(西岸)の和解により6月に発足したパレスチナ暫定統一政府の切り崩しにあります。その被害規模は、パレスチナ側の死者2168人(うち民間人1662人80%)負傷者10895人に対して、イスラエル側の死者は66人(民間人8人)です。
現地時間8月26日午後7時(日本時間8月27日午前1時)にエジプト政府の仲介によりイスラエル軍とハマースの間で長期的な停戦合意が発効しました。私たちはこのことを単純に喜んでいいのでしょうか。講師は、「『停戦になってよかったね』ということばに傷ついた。」というガザの友人のことばを紹介されました。
講師は、6年で3回にわたるイスラエルのガザに対する攻撃について、過去2回の攻撃はジェノサイド「的」攻撃であったが、今次攻撃は、世界が注視する中で公然と行われた大量殺戮・大量破壊、ジェノサイドそのものだと指摘します。今回の停戦合意でも、長期的停戦を保障するものは何もなく、ましてハマースが求めていたガザ封鎖の全面解除など核心の問題については、未解決のままです。ガザの人々は、イスラエルによる次の新たなジェノサイドがいつ始まるかと不安におびえています。
講師によれば、停戦後も無人偵察機がガザの上空を飛び回っており、この無人偵察機にはソニー製のレンズが使われているそうです。180万のガザの住民は、イスラエルによる完全封鎖の下、外との人と物の行き来が絶たれ、そこから逃れることのできない「袋の鼠」状態に置かれています。一方、イスラエルでは、ユダヤ系市民の95%が戦争を支持し、官民によるレイシズム、アラブ人に対するヘイト扇動が行われています。
ここで、講師は、「イスラエルとは何か」(イスラエルという国の成り立ち)という問題に話しを進められました。
今回ガザで起きていることは、1948年にまで遡ります。アメリカの支援の下、この年の5月14日(ユダヤ暦)にイスラエルが建国されます。この時、多くのパレスチナ人が虐殺され、およそ80万人から100万人のパレスチナ人難民が発生しました。この日のことを、パレスチナ人は「ナクバ」(アラビア語で「大破局」「大災厄」)と言います。イスラエルは、1897年第1回世界シオニスト会議以来の「シオン(ユダヤ教の神殿のあるエルサレム郊外の丘)に還れ」をスローガンとし、選民意識を土台としたユダヤ人の偏狭かつ排他的な民族主義の思想に基づくシオニスト国家であり、パレスチナ人に対するレイシズム(民族浄化)により建設された入植型植民地国家です。イスラエルは、貧しい人ではなく金持ちと健康な人の国です。建国後、今日まで一貫して続くパレスチナ人の民族浄化は、「漸進的ジェノサイド」とよばれます。
講師は、イスラエル・パレスチナ問題は、歴史的文脈の中で捉えないと本質はわからないと強調されました。――この問題は、決してユダヤ教とイスラム教、ユダヤ人とアラブ人の対立ではない。イスラエルを「ユダヤ人国家」と言ってはいけない。なぜなら、ユダヤ人の中にはユダヤ教徒でない人、シオニストでない人がたくさんいるから。この問題は、ヨーロッパキリスト教社会の中に根っ子があり、第1次世界大戦後のヨーロッパの植民地主義的世界分割が中東にいくつもの国を生み出した結果である、と。
一方、マスメディアなどが「イスラム原理主義組織」「テロリスト」などと形容するハマースについても、講師は正しい理解を持つことを主張されました。――イスラエルによるパレスチナ人の土地の占領が先にあり、それに対して国際法で認められた抵抗権の行使としての武装抵抗を行っているのがハマースである。ハマースのすべてを認めるわけではないが、国際法が認めるものか、禁ずるものかを見分ける必要がある。例えば、今回のエジプトによる停戦提案に対して、ハマースは、「イスラエルが自分たちの要求(封鎖の解除)を呑むなら、10年間停戦する」という対案を出していた、と。
他方、イスラエルの異常さ、不法さについて講師は次のような事実を指摘されました。
イスラエル国内では、「アラブ人を殺せ!」(イスラエル国民の20%がアラブ人)、「左翼を殺せ!」(イスラエル国民の5%が左翼)ということが声高に叫ばれ、イスラエルの与党も野党も、ガザに対するジェノサイドを公然と唱え、パレスチナ人に対するレイシズム、ヘイト扇動が行われ、反対の声を公然とあげることができないという状況がある。
また、歴史的にみて、ヨーロッパにおけるユダヤ人差別が問題であるのに、1947年の国連総会では、ユダヤ人を自国から追い出したいキリスト教徒が主なアメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするというパレスチナ分割決議が可決されました。しかし、イスラエルは国連分割案の1.5倍の面積を占領した。
続いて、講師は、イスラエルによるガザの封鎖について、これは「殺戮なきジェノサイド」あるいは「生きながらの死」であると、ズバリその本質を指摘されました。
世界人権宣言(1948年)は、第13条2項で、「すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。」と謳っています。しかし、ガザの住人にはそのような自由はありません。子供たちは、封鎖されているガザしか知りません。ライフラインはイスラエルが完全支配し、飢え死にしない程度に生かさせておくという政策がとられています。これは、「緩慢な死刑」「狡猾なジェノサイド」です。封鎖解除なき停戦を受け入れろというのは、「生きながら死ね」というのに等しいことです。
この問題について講師はこう強調されました。――《ガザ》は意図的かつ政治的につくり出されたものであり、《ガザ》を「人道問題」に還元してはならない。《ガザ》とは、あくまでも「人権問題」であり、「政治的問題」である、と。
そして最後に、日本の私たちがなすべきこととして、次のように訴えられました。
― 現実を変えること(Make Difference)。
― トランスナショナルな草の根の市民の力で「不処罰」の「伝統」に終止符を打つこと。
― イスラエルに対するBDS=ボイコット(Boycott)、投資引き上げ(De-investment)、制裁(Sanction)を実施すること。
― 集団的自衛権、武器輸出の解除、沖縄米軍基地に反対すること。
― 自分たちの代表としてこれらの問題を解決する政府をつくっていくこと。
イスラエル・パレスチナ問題についての深く広い知識と現地からの豊富な情報に基づく講師のお話のすべてを紹介することはできませんが、私なりに消化できた範囲でその要点をお伝えします。間違いがあれば、それは報告者の責任です。
なお、この問題についてさらに詳しくお知りになりたい方々のために、講師が紹介された本(新書版)と日本語情報サイトは以下のとおりです。
・ヤコヴ・M・ラブキン著、菅野賢治訳『イスラエルとは何か』(平凡社新書、2012年)
・パレスチナ情報センター http://palestine-heiwa.org/
・パレスチナの平和を考える会 http://palestine-forum.org/
・ストップ・ソーダストリーム・キャンペーン http://d.hatena.ne.jp/stop-sodastream/
(報告者:岩本速雄)
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岡 真理さん講演会のお知らせ
http://naraala.exblog.jp/20870325/
2014-07-03T09:42:00+09:00
2014-07-31T20:24:05+09:00
2014-07-03T09:42:10+09:00
naraala
最新のお知らせ
~完全封鎖下のガザを訪ねて~
京都大学教授 岡真理さん講演会
9月6日(土)
パレスティナの勉強会です
パレスティナ難民500万人のうち180万人が暮らすガザ地区、ここはイスラエルによって隔離壁が建設され、外部との接触は極めてこんなになっているという。ジャーナリストもガザ地区には入れないため、ニュースは一方的にイスラエル側から世界に発信され、パレスティナの実態はほとんど報道されない。そんな中、この3月に岡さんご自身が、ガザ地区を訪問、精力的に取材をされ、写真も資料も整理されています。
お話は、イスラエル建国の歴史からパレスティナを襲った民族的悲劇を分かりやすく、あっという間の2時間。
京都大学の教授という肩書きにビビッてしましそうだけど、語り口は、お茶目な面も見えて魅力的。
そして9月6日(土)に奈良へも来ていただけるようのお願いしましたところ、やさしい笑顔でご承諾くださいました。
皆様どうぞお楽しみに
2014年9月6日(土)
午後2時~4時30分
奈良県文化会館第一会議室
(近鉄奈良駅より徒歩5分)
資料代 500円(会員無料)
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ナラーラ第12回総会開く
http://naraala.exblog.jp/20611312/
2014-04-23T17:54:00+09:00
2014-04-24T15:10:39+09:00
2014-04-23T17:54:47+09:00
naraala
総会
第一部の高林敏之さんの講演には33人が参加 第二部の総会では、報告と提案を満場一致で採択
ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)の第12回定期総会が、3月22日(土)午後2時から、奈良市内で開かれました。
宮城恭子理事長が開会あいさつ。「2002年の「会」の発足にあたって、『10年続けたら文化になるよ』といわれたが、あっという間に12年がたってしまった。安心して暮らせる、豊かな世界の実現を目ざして、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの諸国民との連帯をいっそう強める活動をナラーラとして進めていきたい。最初に、高林敏之さんの奈良での講演は三度目となることを紹介、いま日本とアフリカの関係はどうなっているのかについての講演を聞いて、確信をもって、活動にとりくめるようにしたい」とあいさつしました。
また、宮城理事長は、高林さんが「アフリカや中東、そのなかでも『アフリカの角』といわれる地域が、集団的自衛権の行使や武器輸出の対象となる危険性が大きい」と述べ、「その地域の市民、住民にとっての平和、民主主義に軍事関与がやくだつものか? むしろ日本を『紛争』と『抑圧』の加担者にする安倍首相の「積極平和主義」にもとづく軍事関与を許さぬたたかいを、日本国民自身が日本国内で強めていくことこそが、求められている真の『国際貢献』」と言われたことに感銘し、「世界の宝といえる非戦、非武装をうたった『日本国憲法九条』を、力をつくして守り抜き、安倍政権の『解釈改憲』など絶対に許さないたたかいをナラーラとしても進めて行こう」と、その決意を語られました。 高林さんの講演の後、ナラーラ第12回総会がひらかれ、活動報告と活動方針、会計報告と監査報告などが提案され、満場一致で採択されました。また、規約の一部改正と新役員についても、提案通り可決されました。
高林敏之さんが
「アフリカと日本──軍事優先の関係か、平和・民主の関係か」と題して講演 高林敏之さん(日本AALA連帯委員会常任理事・早稲田大学非常勤講師・西サハラ問題研究室主宰)が、「アフリカと日本──軍事優先の関係か、平和・民主の関係か」と題して1時間40分にわたって講演されました。 高林さんは、安倍晋三内閣は、「集団的自衛権の行使」に向けた策動や、「武器の全面禁輸方針を定めた」「武器輸出三原則」の緩和など、安全保障戦略の見直し策動を強め、自衛隊が海外で戦闘に参加することを可能にしようとしていることを指摘しました。「集団的自衛権」というと、日本の周辺における尖閣諸島や「竹島」問題などで中国や韓国と軍事的に対峙する場合の行使、あるいは対「北朝鮮」という観点で考えられがちだが、東アジアでこうした軍事行動を日本が起こすことは、アメリカの世界戦略からして米国が到底容認するものではないことを明らかにし、現実化する可能性はほとんどないことを指摘しました。 むしろ、アフリカや中東、そのなかでも「アフリカの角」といわれる地域が、集団的自衛権の行使や武器輸出の対象となる危険性が大きいことを、ジブチに設けた日本の自衛隊基地の存在などを例に、具体的に解明されました。 以下、高林さんの講演の要旨を紹介します。 1、安倍晋三内閣による安全保障戦略の見直しの策動 TICAD Vの特徴 2013年6月1日から3日まで横浜で、第5回アフリカ開発会議(Tokyo International Conference on African Development 略称TICAD V))が開かれた。 1993年以降、日本政府が主導し、国連,国連開発計画(UNDP),アフリカ連合委員会(AUC)及び世界銀行と共同で5年ごとに開催してきたが、これまで4回のTICADと違う大きな変化が、TICAD Vには見られる。具体的には5年ごとの会議のたびに外務省パンフレットを発行しているが、過去4回のパンフレットと違って、TICAD V のパンフレットにはNGOのことは出てこないし、JICAについても少しの記述しかない。AU(アフリカ連合)に関する解説ページも消えている。それと比べて「平和と安定のために」ということで、日本の自衛隊のことが大きく取り上げられている。日本の貢献の写真のほとんどが自衛隊で占められている。自衛隊の活動の強調と、安全保障・対テロ分野での支援強化の方向性が色濃くあらわれているのが特徴と言える。 これは、安倍内閣の安保体制見直しの策動の反映と言える。第二次安倍政権のもとで開かれたTICAD Vの「横浜行動計画2013─2017」に盛り込まれているのは「PKO訓練センターへの支援等を通じた人材育成」、2012年以来のマリ紛争や2013年1月のアルジェリア人質事件を念頭に置いた「サヘル地域への安定化支援」、「テロ及び国境を超えた問題対策に資する北アフリカ・サヘル地域の能力向上支援」、さらに「海賊対策」を念頭に置いた「ソマリア沖の海上安全保障支援」などが含まれており、アフリカの主体性を否定し安全保障を重視する方針の反映と言える。
海洋安全保障の強調 2013年12月17日に閣議決定された「国家安全保障戦略」は、その課題のひとつに「シーレーンにおけるさまざまな脅威に対して、海賊対処等の必要な措置をとり、海上交通の安全を確保するとともに、海洋安全保障協力を推進する」を挙げ、「海洋安全保障に係る二国間・多国間の共同訓練等の協力の機会の増加と質の向上」をはかるとしている。その際、重要となるのは、あとで詳しく述べるが、ジブチの自衛隊基地である。このシーレーン防衛は、ペルシャ湾からインド洋、マラッカ海峡、南シナ海を経て我が国にいたる資源・エネルギーの多くを中東地域からの海上輸送に依存している我が国にとって重要であることから、シーレーン沿岸国等の海上保安能力の向上を日本として支援し、戦略的利害を共有するパートナーとの協力関係を強化していくことを強調している。 「地理的制限なき集団的自衛権行使」に向けた策動 2013年2月、首相の“決裁”で設置された首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)のメンバーは、集団的自衛権の行使容認に積極的な人ばかりで、極端な偏向ぶりが際立っている。安保法制懇の北岡伸一座長代理(国際大学学長)が提起する集団的自衛権の行使条件(ロイター、2014年2月21日報道)は、(1)日本と密接な関係にある国が不当な攻撃を受けた場合、(2)放置すれば日本の安全に大きな影響が及ぶ場合、(3)攻撃を受けた国から明示的に要請があった場合など、海外での行使を可能にする内容である。例えば自衛隊の基地を設置するほど「密接な関係にある」ジブチが攻撃を受ければ、「放置すると日本のシーレーン安全保障に大きな影響が及ぶ」ので、ジブチの明示的な要請があれば「集団的自衛権」を行使できることになる。実際に北岡氏は、「集団的自衛権を行使する自衛隊の活動範囲について、地理的な限定を設けることは不適切」(2013年11月5日NHK報道)と述べている。これは、安倍首相、外務省の考えを受けた発言であり、「地理的制限」を取っ払うというのが、その本音だろう。 (編集注:自民党の石破幹事長も、「自衛隊が地球の裏側まで行くこともありうる」と最近発言した。) 「武器輸出三原則」改悪の動き 政府は武器輸出三原則を見直そうとしている。武器輸出のルールを、これまでの「原則禁止」から、一定の要件を満たせば可能とするものだ。 新たな原則案によると、「(1)国際的な平和や安全の維持を妨げることが明らかな場合は輸出しない、(2)輸出を認める場合を限定し、厳格審査する、(3)目的外使用や第三国移転について適正管理が確保される場合に限る」(「東京新聞」2014年2月25日)とされているが、(1)の規定はきわめて主観的な基準である。その修正案として「国際紛争の当事国への輸出禁止」を盛り込むとされたが、「国際紛争の当事国」は「武力攻撃が発生し、国際の平和や安全を維持、回復するため、国連安全保障理事会が取っている措置の対象国」と狭く定義されたため、制裁などの措置を受けていなければ侵略国(キプロス北部を占領するトルコ、西サハラを占領するモロッコなど)でも紛争当事国でも武器輸出が可能になる。実際、イスラエルへの武器や関連技術の輸出は可能となるとの政府見解が出された(東京新聞3月14日:共同)。 また武器輸出の審査基準は「平和貢献・国際協力の積極的な推進に資する場合」「わが国の安全保障に資する場合」などとされている。この場合、例えば国連安保理で決議された「海賊対処」行動の拠点であり、「シーレーン安全保障に資する」ジブチへの武器供与が可能になる。 こういう安倍政権の一連の動きを見ていると、アフリカや中東、なかでも「アフリカの角」と呼ばれる地域が、集団的自衛権行使や、武器輸出の対象となる危険性が大きいことが言える。 2、アフリカへの自衛隊派遣の事例 旧来型PKOによるもの 自衛隊が派遣されている旧来型(中小国主導で創設され、停戦監視や選挙監視など非実力行使型)のPKO(平和維持活動)には次のようなものがある。「国連モザンビーク活動」(ONUMOZ)─1993年5月~1995年1月、国連スーダン派遣団(UNMIS)─2008年10月~2011年9月、国連南スーダン派遣団(UNMISS)─2011年11月~。 これらの事例を見ると、非実戦型のものばかりで、必ずしも自衛隊でなくとも、警察官や文民要員を派遣しても良いものである。もちろん武器の使用など必要ないものである。しかも、日本のPKO協力法に定められた参加原則を満たしている場合でも、国連西サハラ住民投票派遣団(MINURSO)には自衛隊を派遣していない。そこには占領国モロッコとの友好政策が根底にあり、西サハラ問題を黙殺する姿勢が表れている。 PKO外での自衛隊の派遣 村山連立内閣のもとでの「ルワンダ難民救援」─1994年9月~12月にも自衛隊は派遣された。これは親仏独裁政権の政府軍・民兵たち、すなわちルワンダ大虐殺の実行者たちが、フランス軍を中心とした多国籍軍の保護のもとに、これも親仏独裁政権の支配下にあったザイール(現コンゴ民主共和国)東部の難民キャンプに逃れているのを「警護」する役割を担うことになった。これはフランスと対立する新政権(ルワンダ愛国戦線)の不安定化の要因となり、1997年のルワンダ軍などによるザイール侵攻、さらには現在のコンゴ民主共和国東部紛争を誘発することになった。 あとは、2009年3月からのソマリア沖「海賊対処」行動で、海上警備行動だった。日本で「海賊対処法」ができてからは同法による派遣となっているが、2011年6月に自衛隊のジブチ基地が開設されている。初の自衛隊の海外基地である。 このように自衛隊の派遣にしてもきわめて恣意的な政治的判断によるものである。 3、ジブチの自衛隊基地の問題──植民地主義的な「地位協定」とジブチの事情 「地位協定」の内容 2009年4月3日に、日本政府はジブチ政府との間に外相間の「交換公文」として地位協定を締結し、これが自衛隊基地にも適用されている。正式な「条約」「協定」ではなく、行政取極めとして行うことで国会での審議を回避したのである。 この「交換公文」の内容を見ると、「日米地位協定」による在日米軍の特権を上回る特権が日本に与えられている。その内容は次の通り。 第4条各号─ジブチに駐留する自衛隊、海上保安庁および現地連絡事務所の要員・財産・資産はあらゆる形式の訴訟手続きから免除され、捜索・徴発・差し押さえ・強制執行を免除される。 第8条─「日本国の権限のある当局は、ジブチ共和国の領域内において、ジブチ共和国の権限のある当局と協力して、日本国の法令によって与えられたすべての刑事裁判権および懲戒上の権限をすべての要員について行使する権利を有する。」 この内容は、自衛官、海上保安官らの日本人要員が任務中・任務外を問わず、事件をおこした場合の刑事裁判権を、全面的に日本側に委ねる規定である。 この地位協定について、参議院での海賊対処法の審議のさい、参考人として出席した森本敏(当時、拓殖大学教授、のち野田内閣で防衛大臣)氏は「これは今後の日本の自衛隊の海外における活動の非常に良い例といいますか、になりつつあるんだなということを強く感じるわけであります。特に、この交換公文の中で、すべての刑事裁判権を日本側にゆだねているという、大変日本に有利な地位協定の内容になっていることに私は一種の感慨を覚えるものです。」「それは、在日米軍基地において、つまり在日米軍が日本で享受できる特権よりもはるかに日本にとって有利な協定になっているのではないかと。そして、そのことは今後日本が海外に駐留するときに、この協定をモデルにして各国と協定が結ぶことができるというのであれば、非常に良い地位協定の基礎ができたのではないかという趣旨を申し上げた次第でございます。」と意見を述べている。 日米地位協定の不平等に苦しむ日本が、さらに不平等な「協定」をアフリカの一つの国に押し付ける──それは、幕末に欧米列強との間に締結させられた不平等条約に類するものを、明治維新後に朝鮮に押し付けた行為の再現といわなければならない。 しかも「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」は、いわゆる「海賊」を日本の法により拘束し、最高刑は死刑という処罰ができる法律で、ソマリアに限定されない恒久法である。この法律は、ソマリアの無政府状態に便乗して有害廃棄物の投棄や水産資源の乱獲を繰り返す外国船舶によってその生活が脅かされ、自警を始めた人たちを「海賊」と決めつけ、その「海賊行為」に追い込まれたソマリアの人たちの苦境を利用して、世界的な治安出動と現地人処罰が可能とされた法律である。 そのような、地理的制限なき治安出動の基地がジブチの自衛隊の基地なのだ。 ジブチの事情 スエズ運河の南、紅海からアデン湾に出るところにジブチはある。狭小な砂漠気候の国で昼間は50度に昇る暑さである。塩湖で採れる塩と皮革以外に生産物を持たず、食糧のほとんどを外国からの輸入に頼っている。ジブチ港の港湾サービス、および同港とエチオピアを結ぶ鉄道利用収入、フランス軍基地関係の収入に全面的に依存している「基地・港湾」国家であるため、インド洋・アデン湾での「海賊」行為の激化による貿易ルートの混乱は死活問題であり、自国の基地を利用して「海賊」対処活動に携わる諸外国に対する立場はきわめて弱い。 スエズをエジプトとの協定でイギリスが抑えたので、フランスは南の戦略的要衝の地であるジブチを抑え、人口の6割を占めるソマリ人(その大半がイッサ氏族)による大ソマリ主義(植民地分割に際し4つの列強により分断されたソマリ民族の統一をめざす思想・運動)拒否の姿勢を取り、意図的にアファル人(人口の35%)優遇策を取った。1967年には地名から「ソマリ」の名を削るため、「フランス領ソマリ海岸」から「フランス領アファル・イッサ」に改名した。ジブチはフランスが作りだした人工国家である。
1977年の独立以後は、ソマリ人イッサ支族出身の親仏政治家ハサン・グーレド・アプティドーン大統領が22年間独裁体制を敷いたのち、1999年に甥のイスマイール・オマール・ゲレー大統領が継いでいる。「進歩人民連合(RPP)」による事実上の一党独裁体制が敷かれている。この独裁体制のもとで、国民無視の日本との地位協定が結ばれている。アファル民族は冷遇され、1990年代前半にはアファル人の武装勢力「統一民主回復戦線(FRUD)」による武力紛争が誘発されている。
ソマリア氏族の分布状況と現在の国境
ソマリア情勢に大きく影響されるジブチ政府は、ソマリア和平プロセスにおいて主導的役割を果たしてきたが、情勢が好転しない中でアフリカ連合ソマリア派遣団に参加し、イスラーム聖戦主義武装勢力と交戦するようになる。また隣国エリトリアとの間では、国境紛争も起こしている。 このジブチが、エリトリア軍、ソマリアのイスラーム聖戦主義武装勢力のアッシャバーブ、あるいは「海賊」などから攻撃を受けた場合、ジブチに自衛隊基地を有する日本がジブチ政府の「要請」によって、「集団的自衛権」を行使して、ジブチ軍とともに戦闘に加わったり、ジブチ軍に武器を供与することは、安倍政権がすすめる解釈改憲や武器輸出三原則の改定などによって、論理的に可能になる。 日本がジブチの世襲独裁体制と結託して、海外での安全保障活動をすすめるということになれば、1990年代以降のアフリカの政治的自由を求める民主化と2011年以来の「アラブの春」と言われた「北アフリカ革命」に抗し、ジブチの民主化そのものも妨げることに加担することになる。 4、第二次安倍内閣の中東・アフリカ外交──軍事優先、平和と民主主義の軽視
第二次安倍内閣は、対米関係や対東アジア外交の行き詰まりと対照的に、中東・アフリカへの精力的な外交が目立つ。 安倍首相の外遊は、中東・アフリカに集中しているが、これには日本の防衛関連の企業が同行している。日本共産党の井上哲士参議院議員が国会質問で使ったパネルを援用させてもらうと、次の通り一目瞭然である。
重点対象にしているのは「湾岸協力会議(GCC)」諸国、トルコ、西アフリカ諸国、それに「アフリカの角」といわれる地域の諸国である。 GCC(Gulf Cooperation Council)諸国は、米軍の駐屯を受け入れている。カタールには米中央軍司令部、バーレーン王国には米第5艦隊司令部が置かれる専制君主制諸国である。加盟しているのはアラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビアの6カ国で、安倍首相はそのすべての国を訪問し、外交・防衛当局間の安全保障対話の新設に合意している。「民主主義」をまったく度外視した「軍事優先」の外交である。GCC諸国との軍事協力は、この地域における民主化運動に敵対し、かつイランを著しく刺激しかねないものである。 安倍首相は就任以来、トルコと3度も相互訪問し、首脳会談をやっている。そこで話し合われたのは、戦車エンジン技術移転、通信衛星の輸出などの軍事関連協力をすすめることであり、原発の輸出にも合意した。トルコはキプロス北部を40年も実質軍事占領し続けている「紛争当事国」だが安保理の制裁対象ではない。そこにも武器を輸出しようとしている。 アフリカで最初の訪問国はジブチで、「アフリカの角」地帯では、エチオピアも訪問している。エチオピアにはアフリカ連合(AU)の本部があるが、エチオピアはソマリアにも兵員を派遣している。一方ソマリア大統領が訪日した際には、「日本は、国際社会と協力しつつ、治安対策や海賊対策で貢献していく」と約束したりしている。AUとの連携を強める中で、反面ジブチと国境紛争を抱えるエリトリアやソマリアのアッシャバーブと対立する立場を明確にしているのが特徴である。 西アフリカでは、民主化が進展する一方、コートジボワールやマリの紛争のようなPKO事案が相次いでいる。安倍首相のコートジボワール訪問時に、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)諸国との首脳会議をひらき、地域安全保障の分野で積極的な役割を果たす同組織との関係強化をはかった。 こうした一連の訪問と共同声明等によって、安倍首相は自らの主張する「積極的平和主義」なるものを具体化する「戦略的」外交をすでに行っていると言える。それは「コートジボワールとの共同声明」「モザンビークとの共同声明」「エチオピアとの共同声明」「AU本部での政策スピーチ」等に示されている。 冷戦時代のアフリカ外交の反省が全くなく、「民主主義」や「平和」を軽んじ、「独裁」や「権威主義」との価値観を共有する様相そのものである。
5、まとめ
「海賊対処法」制定と、ジブチの自衛隊基地の設置により、日本は海外のどこでも不平等協定を締結して基地を設置し、「警察行動」を展開することが可能になっている。「集団的自衛権」容認の解釈改憲と、武器輸出三原則の改定で、日本が最初に戦争に参加するのは、まさにアフリカになる可能性が高いといわなければならない。 地域の実情を踏まえず、「民主主義」と「平和」をないがしろにしたいわゆる「積極的平和主義」は、日本を紛争と抑圧の加担者にするものである。 ]]>
当面の理事会の日程と30分学習のテーマ
http://naraala.exblog.jp/20550487/
2014-04-07T09:36:00+09:00
2014-04-07T09:36:19+09:00
2014-04-07T09:36:19+09:00
naraala
最新のお知らせ
ナラーラ理事会の5月から9月までの毎月の日程をお知らせします。 理事会では毎回冒頭に30分学習を行っています。この学習には、理事以外の会員のみなさんは、どなたでも自由に参加できます。どうぞお越しください。 理事会の場所は、いずれも「さくら診療所」三階の会議室です。 日程と30分学習のテーマ・担当
5月23日(金) 岩本速雄 「IPCC(国連の「気候変動に
関する政府間パネル」)について」
6月20日(金) 岡谷よし子 「ブルネイ(カリマンタ島[ボルネ
オ島]北部のイスラム教国)について」 7月18日(金) 尾崎義美 テーマ未定 8月15日(金) 真下 均 テーマ未定 9月19日(金) 蔵元信子 テーマ未定 ]]>
アフリカ問題学習会
http://naraala.exblog.jp/20350346/
2014-02-13T09:58:00+09:00
2014-04-07T09:38:38+09:00
2014-02-13T09:58:04+09:00
naraala
最新のお知らせ
「アフリカと日本──その現状と求められるもの」
主催: ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)
(終了しました)
日 時: 3月22日(土)午後2時から4時
場 所: 奈良県文化会館第三会議室
講 師: 高林敏之氏
(西サハラ問題研究室主宰・アフリカ国際関係史研究者・日本AALA理事)
資 料 代: 500円(ナラーラの会員は、無料です)
予約なしで、どなたでも参加できます。
アフリカのニュースを見たり聞いたりしていると、困難をかかえている国がすくなからずあり、そこでの問題が、アフリカ全体の印象を「紛争の多いところ」にさせているようです。でもチュニジアの粘り強い努力と交渉の結果にもとづく新憲法の制定にみられるように、明るい希望のエネルギーが、多く秘められている地域でもあります。
2012年3月25日に、ナラーラは、高林敏之氏による「アフリカのこと丸ごとを知りたい」と題した集中講座を開きました。また2013年3月17日には、中東問題研究家の尾崎芙紀氏による「激動する中東情勢を考える──『アラブの春』の現状と展望」と題する講演もききました。今回の講演は、それらも踏まえながら、その後のアフリカの新しい動きも踏まえての、みなさんの興味、関心にこたえての講演です。
ぜひ、誘いあってご参加ください。
問合せ: 宮城恭子 090-2709-8606 真下 均 0742-24-2213
ナラーラ第12回定期総会
講演会終了後、ナラーラの第12回定期総会を開催します。会員のみなさんはお残りください。]]>
今のチュニジア
http://naraala.exblog.jp/20334514/
2014-02-09T11:35:00+09:00
2014-02-09T11:58:55+09:00
2014-02-09T11:35:27+09:00
naraala
講演会
チュニジア共和国出身の
ジュイニ・ムニールさんが講演
ナラーラの2014年の新年会が、南京終町のさくら診療所3階でひらかれ、用意した椅子席が足りなくなるほどの参加者で、盛会のうちに終わりました。
最初に宮城恭子理事長があいさつに立ち、「安倍首相は財界・大企業をひきつれて、原発をはじめ製品の売り込みの中東やアフリカ、アジア各国をまわっているが、果たして、それが世界の友好や平和につながるのだろうか疑問に感じている。ナラーラとしは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの諸国人民のことを大いに知り、学びながら、友情、連帯とは何かを考える活動に取り組んでいきたい」と述べ、「その第一弾が、チュニジアのことを知る『新年会』で、最後までのご参加、ご協力を」と呼びかけました。
ムニールさんのお話
ジュイニ・ムニールさん(34歳)は、チュニジア共和国出身で現在京都在住です。母国語であるアラビア語のほか、フランス語、英語、イタリア語に堪能で、日本語は現在特訓中だそうです。日本では合気道練習生の経験もあります。
お話はパワーポイントを使い、画像を示しながら英語でスピーチされたものを日本語で、パートナーの坂尾淳子さんが通訳するという形ですすめられました。
最初は1956年にチュニジアがフランス保護領下から独立した時から歌われている「チュニジア国歌(祖国の防衛者)」が流れ、その軽快なマーチを聞いた後、お話は始まりました。歌中の重要な一節は、日本語では「民衆がいつ日か生を望んだならば、かならずや運命はこたえるであろう、かならずや夜は去り、鎖は砕け散るであろう」と訳されています。
チュニジアという国
チュニジアの面積は164,150㎢(日本の約5分の2)、人口は約1,100万人。隣国にリビア、アルジェリア、地中海の対岸北東にイタリアが面しています。公用語はアラビア語ですが、フランス保護領下時代の影響でフランス語も広く普及しています。イスラム教徒が98%、その他2%はユダヤ教徒やキリスト教徒等です。
チュニジアの北部は、緑豊かで肥沃な穀倉地帯で、アラブにとって羨望の地でもありました。北岸と東岸は地中海に面し、陽光豊かなリゾート地でもあります。観光客もおおく、観光施設も多数あります。南部にはサハラの一部が国土となっており、砂漠やオアシス、渓谷など魅力的なところです。この南部にある先住民族ベルベル人の穴居住居は、映画「スターウォーズ」のセットにもなりました。
アラビア語で「こんにちは」は「アッサラームアレイコム」、直訳すると「あなた方に平安を」です。返事は「ワアレイコムッサラーム」、同じく「あなた方にも平安を」です。
紀元前2世紀からリビアとともにローマ帝国のアフリカ属州とされ、そのローマ時代の遺跡がたくさん残っています。「歴史的遺産の宝庫」といわれ長い間埋もれていたので、保存状態が良いと言われています。
白亜の壁に窓や扉は青い塗料で彩られた鮮やかなコントラストの建物は、国内のいたるところで見られます。この窓や扉の青はチュニジアの青い空・青い海と並んで「チュニジアン・ブルー」と評されることもあります。
チュニジアの歴史と文化
伝説によると、紀元前9世紀、中東の海洋貿易民族のフェニキア人によってカルタゴが建国され、地中海貿易で繁栄しました。最初は女王だったといわれています。紀元前3世紀になるとローマ帝国と地中海の覇権を争うようになり、3次にわたるポエニ戦争の末、紀元前146年にカルタゴは滅亡します。以来、紀元439年までは、ローマ支配下のアフリカ属州となりました。
7世紀には、イスラームのもとに糾合したアラブ人が東方から侵入し、土着のベルベル人の女王と東ローマ帝国の連合軍を破り、アフリカをイスラーム世界に編入しました。7世紀から16世紀初頭までは、イスラーム王朝の支配下におかれました。そして16世紀にはオスマン帝国領となります。オスマン帝国の弱体化が進むと、チュニスの「ベイ(=王族)」はオスマン政府から独立した統治を行うようになり、18世紀はチュニス君侯国がチュニジアに成立します。
1861年に憲法が制定され、イスラーム地域及びアフリカ地域で初の立憲君主国となり、西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採ります。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折しました。
1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国によって認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、フランスの保護領「フランス領チュニジア」となります。
20世紀にはいると、チュニジア独立を目的とする結社が創設されて発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動が展開されます。このようなチュニジアの民族運動の高まりを受けてフランス政府は1956年にムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件で独立を受け入れ、チュニジア王国が成立、独立を達成しました。しかし、翌年には王制が廃止され、大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。王制下の首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採りますが、長期政権の中、ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり、1987年には無血クーデターが起こり、ベン・アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉しました。
「アラブの春」の先駆け「ジャスミン革命」
チュニジアは、イスラーム諸国では比較的穏健な世俗的国家として、中東と西洋のパイプ役を果たしていました。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態でした。政権についたベン・アリーはイスラーム主義組織及び労働者共産党に対し抑圧を行い、ある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占・蓄財といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に国民のなかに不満がたまっていきました。革命後明らかにされた蓄財の実態は、画面で生々しく紹介されました。
こうした背景のもと、「ジャスミン革命」がおこるわけですが、その直接的、かつ決定的な要因は、2010年12月17日、中部の都市でおこりました。この日の朝、露天商のモハメド・ブアジジ(26歳)が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして地方役人が野菜と秤を没収、さらには役所の女性職員から暴行と侮辱を受けました。彼は三回、没収された秤の返還を求め役所に行きましたが、引き換えに賄賂を要求されました。三回とも追い返された彼は、これに抗議するために同日午前11時30分、県庁舎前で自分と商品を積んだカートにガソリンをかけて火をつけ、焼身自殺を図ったのです。その場に駆け付けたモハメドの従兄弟アリ・ブアジジが、事件直後の現場の様子を携帯電話で撮影し、その日の夕方、フェイスブックへ映像を投稿しました。「アルジャジーラ」で事件が取り上げられ、一人の青年の焼身自殺が全国に知れ渡りました。イスラーム教を含むアブラハムの宗教は自殺することを禁じており、また火葬の習慣もないので、「焼身自殺」が与える衝撃は大きなものがありました。
ベン・アリーの退陣要求デモが全土に拡大する中、警察は国民を弾圧する側に回りましたが、軍が離反して国民の側につき、ついにベン・アリーと一族は国外に脱出、モハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命します。この一連の事件が「ジャスミン革命」と呼ばれているのです。
国民の人生がみじめなのに、一族による利権の独占・蓄財といった腐敗が誰の目にも明らかとなり、国民は、その生活と自由、自らの誇りと尊厳を求めて運動に立ちあがったのです。
現在のチュニジアの政局
2011年の「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアでは選挙を経て同年末にアンナハダ主導の暫定政府が発足して以降、野党勢力が政治の「イスラーム化」に反発。2013年2月と7月に野党指導者が何者かによって相次ぎ暗殺されてからは対立が決定的となり、反政府デモが断続的に取り組まれてきました。
その後、10月、労働総同盟(UGTT)の仲介で、与党と野党の「国民対話」が始まり、12月14日には、現産業相で無所属のメフディ・ジョマア氏を新たな暫定政府首相に指名しました。同氏は18日には中立政府の組閣を開始。「透明で信頼に足る選挙の実施」「経済危機の打開」に向けた決意を表明しています。
憲法にイスラーム法をいれるか、いれないかでの対立が続いているわけですが、「問題は山積していますが、革命は表現の自由など重要な成果も生み出しています。市民として成熟しつつある国民が政治への関与を強めていけば、道は開けるでしょう」。「ブアジジさんのように革命に命をささげた人のためにも、ここであきらめるわけにはいきません。私たちは社会的公正という目標を実現するまで声を上げ続けます」という識者の意見もあり、いまはなお、不安定ですが、再構築が進んでいくでしょう。
すべての人々が幸せな暮らしができるように
ムニールさんは、約1時間半にわたる話の最後を、イスラームの預言者ムハンマドの「我々(イスラム教徒=ムスリム)はまるで一人の人間のようである。もしも誰かが傷ついたり病に伏せたりしたら、彼らが回復するまで我々は気の休まるところがない。イスラームは誰もが生まれながらに自由であり、誰しも他人の支配下のおかれることはない。」という言葉を引用し、また「地上のすべての人々が幸せなくらしができるように、力を合わせていきたい。平和、よりよい生活、喜び、自由を願います。」と述べて話をしめくくられました。
この後、ムニールさんが作られた、「タジン(チュニジア風オムレツ)」と「ハーブ入りパン」をいただきました。参加者からも「とてもおいしかった」という言葉もムニールさんに贈られました。
続いて、「チュニジアの主要な産業は農業と鉱業で、最近は外資が入ってきて加工産業も増えてきている、食料自給率は100%超で小麦やオリーブは主要な輸出農産物です。」「ベン・アリーの蓄財はチュニジアの国の財産になりました。」「ベン・アリーはサウジアラビアが受け入れている、裁判で有罪となったがチュニジアに身柄が引き渡されるかどうかは分かりません。」「イスラームの教えでは男女は平等、しかし男には男の役割、女には女の役割があり、違いがあるということを説いています。」「チュニジアでは、1956年の独立以来女性の権利が認められ、アラブ世界で最も女性の地位が高い国と言われています。」「チュニジア国民は親日派が多いと思います。日本製の四輪駆動車やピックアップトラック、電化製品などはよく目にします。また、サッカーが国技で特に2002年サッカー・ワールド・カップ(W杯)日韓共催大会一次リーグでチュニジア代表と日本代表が対戦したこともあり、日本代表として活躍したサッカー選手の名前はよく知られています。」「いわゆる宗教間・宗派間の争いということは、少なくとも自分や親族・知人にはありません。」など、参加者から出された質問に丁寧に答えられました。
参考にした文献
『ESCAPE TO TUNISIA Brilliant Impressions』(チュニジア政府観光局刊)
『相互理解を目ざして イスラーム 世界宗教の教えとその文明』(イスラーム文化センター刊)
『ウィキペディア チュニジア』
『ウィキペディア チュニジアの歴史』
『ウィキペディア カルタゴ』
『ウィキペディア ジャスミン革命』
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内村さんからの便り
http://naraala.exblog.jp/20308455/
2014-02-02T19:39:00+09:00
2014-02-03T09:23:23+09:00
2014-02-02T19:39:05+09:00
naraala
沖縄だより
沖縄は屈しない
内村千尋さんからの便り
ナラーラのみなさま
先日は、「沖縄 平和の旅」ツアー、不屈館でお会いできて本当にうれしかったです。
不屈館企画の初コースでした。報告集を読み、いい旅ができたようで私も喜んでいます。
万歳! 勝ちました。沖縄は屈しない
今日は、うれしい報告ができること、言葉にならないほどの感激のなかで書いています。
年末に仲井真知事が沖縄への振興策と引き換えに、辺野古埋め立てを承認するという、信じられないような言葉で、公約を裏切りました。会見内容も支離滅裂で、矛盾を記者から指摘されるとおこりだすなど、恥ずかしいものでした。
ネットでは「沖縄はやっぱり金で転ぶ……」などの書き込みがあふれ、みんなつらい思いをしていたので、今回の名護市長選は、県民の誇りを取り戻してくれたと、県民挙げて喜びにあふれています。
今日の地元新聞は、稲嶺市長がいつものように、朝7時半から8時まで、子供たちの通学路で交通安全見守りの写真が掲載され、感動しました。選挙中も変わらず、すっと続けている日課です。「すべては子どもたちの未来のために」の公約を身を以って実践している人柄が大きな評価を受けたのだと思います。
闘いはこれからが正念場。早速国は、埋め立ての入札公告をきょうにも出すと、新聞は報じています。これまでの「地元の意思を尊重する」と言い続けていたことは何なのでしょう。報復の意思表示なのでしょうか。
全国で稲嶺市長を支えていきましょう。瀬長那覇市長を支えるために全国から5000通の手紙が届いたように。
2014年1月21日
不屈館館長 内村千尋
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2014年新年ご挨拶
http://naraala.exblog.jp/20264610/
2014-01-22T22:20:21+09:00
2014-01-22T22:16:04+09:00
2014-01-22T22:16:04+09:00
naraala
ごあいさつ
ナラーラ理事長 宮城恭子
ナラーラ会員のみなさま。明けましておめでとうございます。いつもナラーラにご協力いただき有り難う御座います。今年も宜しくお願いいたします。
昨年は「ナラーラ再建10周年節目の年」でありました。活動をふりかえってみますと、次のような活動に取り組んでまいりました。
1月、『沖縄と触れ合う新年会』で内村千尋さんを囲んで楽しく懇談している時「沖縄には行ったことが無い。是非行きたい」という意見が出、千尋さんも「手作りツアーのお手伝いをしますよ」と意気投合。11月に『ナラーラ沖縄スタデイツアー(Ⅱ)』を企画しました。不屈館見学、普天間基地視察、辺野古・高江訪問と沖縄AALAとの懇親、冊子も発行できたことが大きな収穫でした。
3月、定期総会記念講演では尾崎芙紀さんに『アラブの春は、今 』と題して変化しつつある多様なアラブ情勢をお話しいただきました。
さらに会員拡大を提起し、ナラーラの栞を一新し、パソコンに保管。何時でも新しい栞を準備できるよう工夫し、様々な取り組みでもナラーラを宣伝し、みんなの力で会員を70名まで拡大し、喜びを全国総会で報告しました。理事会は毎月1回開催し、「30分学習」も定着。「10周年記念会員アンケート」にも取り組みました。
8月、『納涼会』で内モンゴルの馬頭琴の演奏と歌に酔いしれました。
11月、沖縄旅行、旅行冊子作成と忙しくしているうちに2013年も終わりました。
国内の政治では、安倍内閣は原発事故による被災者の生活支援活動や放射能垂れ流し問題には関心を示さず、原発や武器を世界に売り歩く商人となり、戦後最右翼軍国主義、横暴極まりない凶暴な狙いを隠そうともせずTPP参加や秘密保護法成立等を強行しました。安倍政権は民主主義とは相容れない、一部の外国も含む大企業・軍需産業の担い手であることを証明しました。
平和な安心できる環境で、豊かに穏やかに仲良く暮らしたいと願っている民意との乖離は甚だしいものがあります。このような「戦争」に繫がる無理無体な政治は、私たちの時代には絶対あってはならないことです。
今年は、歴史をより深く知り、世界の流れに学び無理無体な政治をやめさせるまで、闘いを強めなければなりません。
互いの違いを認め合い、尊重しあい、紛争を戦争に発展させないための話し合いを徹底的にするお手本が、世界には、東南アジアには存在すること、日本には憲法第9条があることを高らかに呼びかけましょう。私たちは絶対あきらめてはいけない。歴史を、戦争ではなく連帯と友好へ、前進させましょう。
2014年は1月の新年会にチュニジア青年の話を聞く会を企画しています。さらに沖縄名護市長選挙の応援で普天間基地辺野古移転野望を日米両政府に断念させること、3月には定期総会、春には懸案の「慰安婦問題を市民運動に」を合言葉にデッサンパネル展を開くこと、など企画が目白押しとなっています。
会員の皆様方の要望、アドバイスなどをもとに、企画し運営できる、「学んで楽しい仲間も増える」有意義なナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)の活動を今年も目指しています。
今年もよろしくお願いいたします。
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2014新年会
http://naraala.exblog.jp/20210826/
2014-01-09T20:42:00+09:00
2014-02-12T14:04:00+09:00
2014-01-09T20:38:50+09:00
naraala
最新のお知らせ
終わりました
「アラブの春」
チュニジアってどんな国?
予約なしでどなたでも参加できます ぜひご参加を!
日 時 2014年1月18日(土曜日)
午後2時~4時半
場 所 さくら診療所3階ホール
(おかたに病院の真向かい)
市内循環バス「八軒町」下車・徒歩5分
JR「京終駅」下車・徒歩3分
講 師 ムニールさん(チュニジア人)
チュニジア共和国の首都チュニス出身の若者。京都在住。自国で取得した資
格や語学を生かし、アロマオイルマッサージや語学レッスン。
参 加 費 500円(会員は無料)
東南アジアや南米、EU諸国など、世界の動きは「対話による平和の仕組みづくり」が主流になってきています。
安倍政権は「戦争できる国づくり」に暴走していますが、2014年こそ国民の力で、安心して暮らせる政治に転換しなければなりません。
新しいスタートとして、「ナラーラ新年会」を企画しました。
「アラブの春」の先頭をきった、北アフリカ・チュニジアの生活や文化、革命のようすなどを映像を交えてチュニジアの青年に話していただきます。
チュニジアの簡単な料理や軽食も準備しています。ぜひご参加ください。
主催:ナラーラ(奈良県アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会)
連絡先:宮城恭子(090-2709-8606) 真下均(0742-24-2213)
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DVD観賞会 「9条を抱きしめて」
http://naraala.exblog.jp/19770434/
2013-10-05T17:35:00+09:00
2014-02-12T14:06:44+09:00
2013-10-05T17:32:27+09:00
naraala
最新のお知らせ
終わりました
日 時: 11月6日(水)午後6時から
場 所: さくら診療所3階
上記のとおり、「元米海兵隊員アレン・ネルソンさんが語る戦争と平和」の上映をおこないます。アメリカの海兵隊員としてベトナム戦争に参加した経験から、戦争のむごさ、不条理さと、平和を守ることの大切さを痛感したアレン・ネルソンさんは、日本国憲法第九条tと出会い、「これこそ世界の宝だ」と実感、日本各地を回って「憲法9条の値打ち」を語ってこられました。
その講演を録画した DVDです。約45分間のものです。
ナラーラ理事会では、毎回、30分学習をやっておりますが、今回はこのDVD上映をすることになりました。
会員のみなさんはもちろん、会員以外の方でも参加してご覧いただいて結構です。ぜひ誘い合わせてご参加ください。
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納涼会
http://naraala.exblog.jp/19760877/
2013-10-03T21:41:08+09:00
2013-10-03T21:38:53+09:00
2013-10-03T21:38:53+09:00
naraala
行事
「草原を吹き渡る風を感じ楽しかった「納涼会」
ナラーラ(宮城恭子理事長)の「納涼会」が、8月25日(日)午後2時から、奈良市京終町のさくら診療所3階で開かれました。会員以外の24人もふくめて40人が参加、ホトランカさんのモンゴルの曲に日本の曲も交えての馬頭琴の演奏とモンゴルの歌唱を参加者全員が大いに楽しみました。
馬頭琴奏者のホトランカさんは、内モンゴル国立師範大学音楽学部を卒業、ホホフト民族学院音楽学部馬頭琴教師を勤めた後、2004年に日本に留学、1年間日本語学校で学んだあと、大阪市立大学文学部研究科アジア都市文化学で学ばれ修士課程を修了され、日本で9年間過ごされた方です。日本語も達者で、お話も交えて楽しい演奏をしていただきました。
馬頭琴は、モンゴルに古くから伝わる楽器で、二弦の弦楽器です。楽器の先端部分がかわいい馬の頭になっていて、弦は今ではナイロンを撚り合わせたものになっていますが、昔は馬の尻尾だったそうです。弓はやはり馬の尻尾でできていますが、それも白馬のものがよいとされています。胴の部分は台形で両膝ではさんで支えて演奏します。昔はこれも皮張りだったそうですが、いまでは木製になっているそうです。
素晴らしかったホトランカさんの演奏
最初のチューニングのときに、ものすごく腹に響く重低音だったので、「大変な音を出す楽器だな」という思いがしましたが、低音部と高音部の二弦と弓の操作で、すばらしく繊細な音も出されることにびっくりしました。
最初はモンゴルの伝統的な曲「心の歌」から始まりました。そのあと1997年に作曲されたという創作曲「スーホーの白い馬」が演奏されました。草原を駆ける馬の蹄の音や、いななきまで組み込んだ素晴らしい曲で、演奏も見事でした、日本の歌では「さくら さくら」「荒城の月」「なだ そうそう」「宵待ち草」などが演奏されました。
歌唱は、二曲歌われましたが、それこそモンゴルの草原をどこまでも届いていくような素晴らしいのどを披露しくくれました。ホトランカさんは、中国の内蒙古自治区の出身ですが、モンゴル国とも行き来しており、それぞれの事情にも詳しく、その知識も披露していただきました。
モンゴルは草原と砂漠、そして雪を戴いた山などが地形をなしており、8割の人が牧畜化農業に従事、いわゆる土地から離れて暮らしている「市民」は二割以下であることも紹介されました。演奏されているあいだには、モンゴルの情景を撮影したDVDが映され、それをバックにして演奏は続きました。
演奏の始まる前に、ホトランカさんが煎れてくれた塩と牛乳入りのモンゴルのお茶がふるまわれ、またホトランカさんの友人が作ってくれたという指ぐらいの揚げパンもおやつに提供され、モンゴルの音楽と味を、参加者は楽しみました。 (文責 西浦宏親)
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中東問題研究家 尾崎芙紀さんの講演(その1)
http://naraala.exblog.jp/18729220/
2013-05-10T11:47:00+09:00
2013-05-10T20:51:27+09:00
2013-05-10T11:47:08+09:00
naraala
講演会
──「アラブの春」の現状と展望(その1)
2013年3月17日ナラーラ総会での
中東問題研究家の尾崎芙紀さんの講演概要
はじめに
2010年末チュニジアに始まり、エジプトからその他のアラブ諸国に広がっていった市民の民主的変革を求める運動、いわゆる「アラブの春」の到達点と、それをどう見るかということについて、みなさんと一緒に考えてみたい。
1979年に「イラン革命」が起こり、中東に大きな変化が生まれたが、2012年に始まった動きも、それとつながる大きな構造的変化ということができる。それは、いまなお進行しつつあり、まさに変化の途上にある。
2012年秋ぐらいまで民主化を求める運動は、チュニジア、エジプトでは自力で、リビアではNATOの援護で、といった違いはあるが、次々と強権政治を打倒して、前進をかちとっているかに見えた。しかし、シリアは悲惨な内戦に陥り、2000万国民のうち、7万人が犠牲に、200数十万人が国内外の難民になるという事態に直面している。公正な選挙がおこなわれたはずのエジプトでは、ムスリム同胞団を母体とする新政権が、旧態依然とした強権体質をみせている。
現地では「命がけでデモに出ている人たちに『春』はそぐわない。『革命』とか『蜂起』だ」と主張する人々もいれば、「自分たちは『革命』をやっているのではない。体制内の改革だ」という人たちもいる。「アラブの春」は新しい段階に入っている。試行錯誤しながらも、そして時間はかかっても、市民の声と権利が尊重される社会を求める運動だ。「革命はまだ始まったばかり。国民のために働かない政府は私たちの力で変えればいいのだ」。カイロやチュニスの街頭で聞く若者や市民の声は、そのことを示している。
*西側のマスコミは、チュニジアのたたかいを「ジャスミン革命」と呼んでいるが、現地では「民衆革命」、あ るいは焼身自殺した青年の名をとって「ブアジジ革命」と呼んでいる。エジプトでは市民が決起した日に 因んで「1月25日革命」と呼んでいる。
言葉の説明
はじめに、中東地域とはどこか、アラブ人とはどういう人たちかについて説明しておきたい。
「中東」とは
「アラブ連盟加盟国と中東地域」の地図にあるように、中東とは、東はアフガニスタン、イランから、西はモロッコの大西洋岸にいたる広大で多様な地域を指している。北はトルコ、南はアラビア半島、スーダンまで。もともと、「中東」という呼称は、「近東」「極東」と並んで、ヨーロッパから東方を見た場合の距離感にもとづく呼び名だったが、第二次世界大戦後、国連による世界の地域分類として一般化0した。北アフリカを除外した地域を中東と呼ぶ場合もある。
「アラブ人」とは
「アラブ人」とは、身体的特徴をしめす人種ではない。言語や習慣、歴史など共通の文化的社会的特徴を持つ集団・民族を示す概念。もとは、アラビア半島に住んでいたアラブ人たちが、7世紀に興ったイスラム教とともに広がり、混血していったもの。20世紀になって民族主義の高まりのなかで、血統や宗教の違いを超えて「アラビア語を話し、文化的特徴を共有するもの」という定義が確立していった。アラブ人はイスラム教徒が大多数だが、キリスト教徒も1割ほど(レバノンでは3、4割がキリスト教徒)。故アラファト・パレスチナ解放機構(PLO)議長はイスラム教徒だったが、夫人はキリスト教徒。なお、アラブの独立国家から成る地域共同体・アラブ連盟は、「共通の言語と文化」を絆に1945年に結成された。現加盟国は22カ国(パレスチナを含む)。
イスラム化しながらも、アラビア語を母語としなかったのは――つまり、アラブ人にならなかったのは、中東ではイラン、トルコ、アフガニスタン。さらに1948年に建国されたイスラエルがある。
「パレスチナ人」/「ユダヤ人」とは
「パレスチナ人」とは、パレスチナに住む、あるいはイスラエル建国以来パレスチナを追われたアラブ人とその子孫を指す。つまり、パレスチナ人とは人種とか宗教には関わりなく土地への帰属を表す概念。「ユダヤ人」も人種ではない。イスラエルでユダヤ人とは「ユダヤ人を母とするもの、またはユダヤ教に改宗したもの」となっている(1970年「帰還法」)。
【参考文献】
①松本重治監修/板垣雄三編『中東ハンドブック』(講談社、1992年)
②小杉泰『現代イスラーム世界論』(名古屋大学出版会、2006年)
③『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2001年)/『新イスラム事典』(平凡社、2002年)
2、3年前までは、「中東は面白くないね」と言われた。ラテン・アメリカなどで変化が起こっても何の変化もないから、と。また、中東地域は「世界の火薬庫」と呼ばれるほど、紛争の絶え間ない地域だった。第2次世界大戦後、イスラエルがからむ4次の中東戦争、それに80年代のイラク・イラン戦争、90年代のイラクのクウェート侵略と湾岸戦争、2000年代に入ってのアメリカのアフガニスタンとイラク侵略など10回以上の大がかりな戦争が起こった。中東紛争・戦争には直接間接にアメリカがからみ、日本も目下の同盟国として、アフガニスタンやイラクなど中東を舞台に、なし崩し的に自衛隊の海外派兵を行っている。その中東地域で市民による民主化運動「アラブの春」が起こっている。
三つの柱で
以下、[Ⅰ]中東の民主化運動が起こった背景、[Ⅱ]各国の現状をどう見るか、[Ⅲ]中東の国際関係の構造的な変化──この三つの柱に沿って、ご一緒に考えてみたい。
[Ⅰ]中東の民主化運動が起こった背景
ブアジジ革命=「パンの前に尊厳を」
2010年の暮れ、チュニジア中部の町で始まった「パンの前に尊厳を」というたたかいは、「仕事、自由、尊厳、社会的公正」のスローガンとなって、またたく間にエジプトや他のアラブ諸国、さらに世界各地に広がった。
青年の焼身自殺の原因から問題の一端が見えてくる。大卒、26歳、失業中のブアジジ青年は、野菜の路上販売で生計をたてていたが、警官に無許可販売を咎められ、商品を没収され、賄賂まで要求された。チュニジアはアラブ諸国の中でも最も教育水準が高いが、若者の失業率は当時3割以上に達していた。
IMFや世界銀行は同国を「奇跡の経済成長」と高く評価していたが、国民生活の実態は、長期の強権的な政権のもとで経済の自由化が進められ、貧困と格差は拡大の一途をたどっていた。また、対外的な印象とは異なり、言論・報道の自由度も際立って低く、「国境なき記者団」によると全世界178カ国中164位、リビアやサウジアラビアよりも低い位置にあった。
こうしたなかでベンアリ大統領一族による利権支配や蓄財がはびこり、庶民の怒りはその腐敗行為にも向けられていた。アブジジ青年の事件はネットを通じて、またたく間に全土に広がり、抗議ストへと拡大した。
このたたかいが起きたとき、駐日チュニジア大使が「国民に連帯して大使を辞任する」と言って帰国した。大使のお父さんは、フランス植民地からの独立運動の闘士だった。たたかいのなかで捕まって銃殺されたが、その意思を受け継いでのことだと聞いた。
(1)社会・経済的背景(公正な政治・経済を求めて
①アラブ世界の病巣
こうした直接の原因だけでなく、背景にはアラブ世界の長年の社会・経済的な病巣がある。アラブ諸国の学者たちが、国連の後援で2002年から2009年まで5回にわたって「アラブ人間開発報告」という報告書を作成しているが、そこでは「自由、女性の能力開発、知識」の面で、アラブ地域には大きな立ち遅れがあることを自己批判している。たとえば、6割を占める若年人口(30歳以下)とその高失業率、4割のアラブ人が文字を読めない、そのうち3分の2が女性であることなどだ。
この報告書にととびついたのが、アメリカのブッシュ大統領だ。2003年のイラク侵略の口実とした大量破壊兵器の存在やフセイン政権とアルカイダとの関係がなかったことが明らかになったとき、この報告書を恣意的に利用して、「この3要素の欠如がテロの温床となっている」と決めつけ、イラク攻撃を合理化、外からの「改革」を押し付けようとした。しかし、アラブ諸国の学者たちはこれを拒否し、「自分たちは内部改革を目指し、自己批判のプロセスを開始したのだ」「アラブ世界の真の再生をすすめる内発的な改革のために真剣に努力を払う」と外部からの介入に反発した。この思いは「アラブの春」の動きに結実している。
②これまでのたたかいが基礎
もう一つ大事な点として見ておかなければならないのは、こうした変化の基礎には、これまでの人民や労働者のたたかいがあるということだ。近年の運動をみてみたい。
エジプトで、無党派の人々とともに政変の中心となった勢力は、数年来、労働運動を支え、パレスチナ人に連帯し、イラク戦争に反対する運動を続けてきた人たちだ。たとえば、北部の大繊維工場で労働争議支援を掲げてつくられた「4月6日運動」(2008年)、アレキサンドリアの警官たちの横暴を糾弾したソーシャル・メディア「われらはみな、ハーリド・サイード」(2010年)、2000年のパレスチナ人たちのインティファーダ(蜂起)と連帯し、イラク戦争に反対する運動を母体として結成された「キファーヤ(もうたくさん)」などをあげることができる。
チュニジアの労働運動の歴史は、この地域ではいちばん古い。1956年にフランスから独立を勝ち取る前から、チュニジア労働総同盟は、経済・社会・教育の要求を提起し、ヨーロッパの国際自由労連にも働きかけ、独立運動に対するフランスの弾圧を知らせた。近代的憲法を持ったのも1861年と、この地域ではいちばん早い。次々と弾圧でつぶされてきたが、労働者の蜂起は続いていた。
80年代末、パレスチナ占領地に広がったパレスチナ人の非暴力の抵抗運動は、1979年のイラン革命と並んで、現下の中東民主化運動の先駆けと呼ばれている。1987年、イスラエルの占領に反対するパレスチナ人のたたかい、第一次インティファーダ(蜂起)が起こった。武装したイスラエル軍に対するストやデモ、投石などによる抵抗運動は、ガザから占領地全体に広がっていった。パレスチナ人たちは、幅広い民族統一指導部を結成し、地場産業の育成にも取り組んだ。
いま、パレスチナ人たちは逆に、アラブ諸国の民衆の運動から刺激を受け、分裂した指導部の統一や、物価高や失業に抗議する運動を進めている。
このように歴史を見ると、長い間のたたかいが、今日の運動の基礎になっていることがわかる。
(2)歴史的背景
アラブ人がたたかいに立ち上がった背景には、新自由主義経済による生活破壊もあれば、長期にわたるアラブ社会の病巣もある。しかし、その背後には19世紀から20世紀にいたる西側諸国の植民地支配の歴史がある。
エジプトやチュニジアなど北アフリカ諸国は19世紀半ばから、シリアやメソポタミア、パレスチナは第1次世界大戦(1914~1918)後、西側諸国の植民地支配の下に置かれた。第1次世界大戦は西側列強による世界再分割の戦争だが、中東については、アラブ地域を含むオスマン帝国の領土の争奪戦だった。特に、イギリスの政策は「三枚舌外交」とも呼ばれ、植民地大国の身勝手さを典型的に示している。
イギリスはフランスと、シリア、パレスチナ、メソポタミアという重要な地域を分割する密約を結んでおきながら(1916「サイクス・ピコ条約」)、アラブ側に対し、オスマン帝国に反乱を起こせば、アラブ側が要求するほぼ全域で独立を承認すると約束(1915-1916「フセイン・マクマホン書簡」)。一方で、欧米のユダヤ資本の協力を得るため、パレスチナへのユダヤ人の「民族郷土」建設を支援すると約束(1917「バルフォア宣言」)した。
戦争に勝利した英仏は1920年から、国際連盟に代わってアラブ地域の委任統治を始める。イギリスはイラク、ヨルダン、パレスチナの、フランスはレバノン、シリアの委任統治を始める。イギリスは、アラブ側との約束を反故にし、大量のユダヤ人移民をパレスチナに受け入れた。30年代のナチスによるユダヤ人迫害はこれに拍車をかけ、ユダヤ人口は委任統治の25年間に、約8万人から60万人に、パレスチナ人口の11%から31%にまで激増。混乱を収拾できなくなったイギリスは1947年、創立間もない国連にこの問題を預ける。
国連は同年、パレスチナ分割決議を採択、パレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ・アラブ人国家に分割し、三宗教の聖地エルサレムは国際管理のもとに置くと決めた。この決議は、当時全人口の三分の一、土地所有の7%しかないユダヤ人にパレスチナの57%の土地を与えるものだった。翌年イスラエルが一方的に独立を宣言し、これを認めないアラブ諸国がイスラエルに攻め込んで第一次中東戦争が始まる。
アラブ人にとって未解決のパレスチナ問題が、西側の植民地主義に対する民族解放運動という大義であり続けている背景には、こういう経過がある。
第二次世界大戦後の40年代から50年代にかけて、アラブ世界で反植民地、民族主義の運動が起こる。シリア、レバノン、ヨルダンが独立、エジプト、チュニジア、イラクでは、王制が倒されて共和制が実現した。60年代から70年代にかけて、湾岸諸国でも英保護領から独立する動きが起こる。
中東諸国の独立運動を抑えきれなくなったイギリスは1971年、スエズ以東の湾岸地域から撤退し、アメリカがこれに代わって中東地域への関与を強め、西側の権益を守る外交軍事戦略を進めるようになる。その後のアメリカの中東・湾岸政策は、ご都合主義の最たるもの。
イラン革命以前アメリカは、湾岸の憲兵にイランのパーレビ国王を任じ、その強化に奔走した。1979年、民衆の革命でパーレビ政権が倒れると、今度はイランの封じ込めに奔走する。次いでイラクのフセイン政権が、湾岸諸国を革命イランから守ると言ってイランに攻め入ると、西側の先頭にたってイラクを支援する。
その結果、強大になったフセイン政権がクウェートに侵攻すると、今度は一転、多国籍軍を結成し、イラクを攻撃、湾岸戦争となった。そしていま、私たちはアメリカが虚構の口実で始めたイラク侵略の残骸を見ている。
(その2へつづく)]]>
中東問題研究家 尾崎芙紀さんの講演(その2)
http://naraala.exblog.jp/18729225/
2013-05-09T11:49:00+09:00
2013-05-24T21:59:36+09:00
2013-05-10T11:50:09+09:00
naraala
講演会
──「アラブの春」の現状と展望(その2)
[Ⅱ]各国の現状をどう見るか
(1)各国の到達点
この2年間、10近いアラブ諸国で議会選挙がおこなわれた。内実を伴わない場合も多いが、政府が市民の声を無視できない状況が生まれている。
アラビア湾(ペルシャ湾)岸諸国やヨルダン、モロッコなどの王政諸国でも、生活苦を訴え、政治改革や議会の権限強化を求め、王族や閣僚の汚職を批判するデモが行われている。ヨルダンでは王政を批判する声まであがった。3月にはクウェートで野党グループが、抗議行動を活性化させるために、イスラム主義者や労働者、学生を含む広範な野党連合を結成、民主的な複数政党制を要求した。これまで見られなかった動きである。
エジプトでは、2012年6月の大統領選挙で、ムスリム同胞団を母体とする自由公正党のモルシ氏が勝利した。モルシ大統領は「私はすべてのエジプト人の代表になる」と宣言したが、国論を二分する暴挙に出た。一つは、大統領権限を大幅に強化する大統領令の発布、いま一つは十分な議論もなく早急な憲法国民投票を行ったことである。これに対して「新たなファラオと化した」などと新政権の独裁化を懸念する声があがり、ムバラク大統領を退陣に追い込んだカイロのタハリール(解放)広場をはじめ、全土で数十万におよぶ人々が街路に繰り出した。憲法国民投票は強行されたが、抗議の声のまえに大統領の権限強化宣言は撤回された。
チュニジアでは、2011年10月の制憲議会選挙で上位3党、イスラム主義政党と世俗政党による連立政権が発足した。憲法制定のプロセスでは「国家と宗教の関係」「女性の地位」「報道の自由」など、チュニジアの議論は他のアラブ諸国に先んじている。「女性は男性の補完的な存在」という文言は女性団体などが強く反発して取り下げられた。
政治の混乱と経済の悪化に国民の不満は高まり、政府は労組と労働条件などを定める社会協定を締結した。2013年2月、野党幹部の暗殺事件が発生、大規模な抗議デモが起こった。その混乱のなか、内相、外相など半数のポストを無所属が占める新内閣が成立している。
イラクでは米軍の「完全撤退」1周年を迎えたが、爆弾テロや銃撃が荒れ狂っている。原油の増産をテコに経済は一見活況を呈し、外資の参入ラッシュは続いているが、政治には腐敗がはびこり、アメリカの置き土産というべき宗派対立は激化している。失業率は25%と高止まり。宗派主義的、独裁的手法を強めるマリキ首相に対して、昨年末には退陣を求める過去最大数十万人のデモが中部ファルージャやラマディ、北部のクルド地域で起きた。ラマディのデモでは、イラク版「アラブの春」を呼びかける声も聞こえた。
外部勢力の介入で政権が倒れたイラクと、試行錯誤しながらも民主的な国づくりに前進している国々を取材した、小泉大介「赤旗」カイロ特派員の思いを紹介する(雑誌『月刊学習』2012年2月号)。
「外国軍の武力による政治体制転覆の誤りを考えずにはいられない。チュニジア、エジプトと、人民自らの力で独裁政権を倒し、試行錯誤を繰り返しながらも新たな国づくりに乗り出している。(…)エジプトの人民議会選挙で投票した多くの人たちが「いま私は、エジプト人であることを誇りに思う」と語った。それを聞くたびに、イラクの人々のことを思わずにはいられなかった」
(2)運動の到達点をどう見るか
試行錯誤しながらも、運動は新しい段階に進んでいる。現地の活動家や研究者の議論からいくつか紹介したい。
今年3月に外務省などが主催した国際シンポジウムに参加した学者たちの発言では「国民は自分たちが物事を変えることができることを知った」「各国ごとに到達点は異なるが、政府が国民世論を無視できなくなった」「対外政策、とくにパレスチナ問題で国民は発言する権利をもつようになった」「エジプトは完全には変わっていない。しかし時間はかかるが、政治組織も選出された議会もある。対立があるのは当たり前。前進は止まらない」などが印象的だった。
ベイルート・アメリカン大学のラミ・ホーリ公共政策・国際問題研究所所長は、「デモが起こらなかった国々を含め、アラブ各地で憲法修正を求める運動が起こっている。強権的な支配者を倒すより重要なことだ。法の支配が貫徹する社会を市民が望んでいることが示されているからだ」と、レバノンの「デイリー・スター」紙に書いている。
レバノン内戦時に、幅広い統一戦線組織「レバノン国民運動」で活動した元レバノン大学教授のマスード・ダーヘル氏は、昨年12月来日したとき、「短期に失敗か成功かの問題ではない。運動を続ければ変化は起きる。たくさん問題があるというが、それがあるからこそ前進する」「これは宗派主義を克服し、民主主義と市民の権利を求める運動だ」と述べている。
エジプトの野党統一戦線の共同創設者のサバヒ氏は、「革命はまだ途上にある」と述べている。タハリール広場に集まった若者たちも、「革命は続いているぞ!」「暮らしも政治もよくなっていない。あきらめずに運動をつづけなければ。それに加われるのが私の誇り」と訴えている(2012年11月25日付「しんぶん赤旗」)
今年1月東京で開かれた国際ワークショップで、パレスチナ人研究者倭リード・サーレム氏は「民主主義への道は複雑で時間がかかる。フランス革命だってそうだった。1789年の革命から女性の参政権が認められる1944年まで155年かかった」と述べている。
これらの発言を聞いて感じることは、「複雑な現実をしっかり認識することの大切さ」とともに、「運動を続ければ、時間はかかっても、民主主義と市民の権利を求める運動は前進する」ということだ。さらにその認識にたって、事態を見ていくことの大切さである。
[Ⅲ]中東の国際関係における構造的変化
(1)パレスチナ問題に見るアメリカの影響力の低下
「アラブの春」がパレスチナ問題に及ぼした影響を見てみよう。
《エジプトや近隣諸国の変化》 昨年11月中旬、イスラエル軍の一方的な空爆で始まったガザ危機は、各国の働きかけがじつって1週間で停戦に至ったが、アラブ諸国の指導者らの活発な外交活動に比べて、アメリカの影は薄かった。近隣諸国の指導者らは「われわれは傍観していた昨日までと違う」と述べた。アフガン、イラク戦争の失敗、経済的地位の低下など、米国はもはやかつての超大国ではない。
併せて、30年以上にわたってイスラエルに次ぐアメリカの中東戦略の柱だったエジプトのムバラク政権が崩壊し、1979年以来の米戦略の構造に大きな変化が起こっている。1979年とは、エジプトがイスラエルとの単独和平を結んだ年、そしてペルシャ湾におけるアメリカの代理人イランのパーレビ国王が広範な国民の運動で倒された年だ。以来、エジプトはイランに代わって、アメリカの中東戦略のお先棒を担いできた。政変後のエジプト新外相が「イスラエルと協力してガザを閉じ込めてきたのは恥辱」という発言をした。
《問題解決の場は国連に》 米国の影響力が低下するなか、パレスチナ問題は国連の枠組みでの解決に向けて動きつつある。米国とイスラエルはこれまでかたくなに国連主導の国際会議に反対しきた。1993年のオスロ合意以降、「中東和平交渉」はアメリカを唯一の仲介者として進められてきたが、イスラエルは交渉しながら、占領地に国際法違反の入植地を次々に建設、オスロ合意の8年間で157カ所から200カ所に、入植者数を27.5万人から400000人にまで増やした。国連の最新の報告書(本年1月)によるとその数は今や250カ所、入植者数は520000人に上っている。
こうしたなか、パレスチナ人たちは2011年9月、アメリカの圧力にもかかわらず、国家としての正式加盟を国連に申請した。アメリカの妨害によって国家としての国連加盟はできなかったが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟は、同総会で賛成107体反対14の圧倒的多数で承認された。翌2012年11月、パレスチナ人たちは再び国連に対し、現在の「投票権なしのオブザーバー組織」から「投票権なしのオブザーバー国家」への格上げを求める決議案を提出、国連総会は賛成138(日本を含む)、反対9の圧倒的賛成多数で決議を採択した。注目されるのが欧州諸国の態度の変化だ。
2011年、パレスチナがユネスコへの加盟を申請したとき、反対票あるいは棄権票を投じた欧州諸国のなかで、今回賛成あるいは棄権に態度を変えたのはイタリア、デンマーク、スイス、オランダ、スウェーデンなど9カ国だ。
(2)米の「アジア重視戦略」のなかの中東
2011年末、イラク居残り工作も功を奏さず、アメリカはイラクから「全面撤退」、さらにアフガン戦争の「収束」も視野に、アジア重視に軸足を移すという方針を発表した。しかし、オバマ政権のこの「アジア重視」は、中東から太平洋地域への軍事力の単純な移転ではないことが、その後の動きでわかる。
クリントン米国務長官は最初の訪問をアジア諸国から始めた。しかし、ケリー新国務長官は、ヨーロッパと中東の歴訪から始めている。また、アラビア湾岸地域への米軍の派遣は途切れなく続いている。アメリカの2011年の武器売却総額は、過去最高の5兆2400億円で、全世界の契約総額の78%を占めている。そのうち、イランの脅威を口実に、湾岸諸国は上位を占め、なかでもサウジアラビアは、米国の売却総額のほぼ半分を占めている。
アメリカは、中東のエネルギー資源を守るために軍の駐留を維持してきたが、アメリカの大手石油会社の幹部は、将来中東石油への依存度が減ったとしても、中東の石油資源が世界経済の安定のカギを握っている事実は変わらないと述べている。
湾岸諸国のどの国も自衛能力をもっておらず、自国の安全保障を完全にアメリカに依存してきた。米政権は、湾岸諸国の安全を守ると明言しており、必然的に同地域での市民弾圧を容認することになっている。その湾岸諸国でも、いま自由と政治参加を求める市民の声は日増しに強くなっており、各国政府は、早晩その現実に向き合わなければならなくなるだろう。
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